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アニメ映画『怪盗クイーンはサーカスがお好き』を観た



2022年公開のアニメ映画『怪盗クイーンはサーカスがお好き』が先週レンタル開始したということで、十数年来の友人と一緒に観て感想を駄弁りました。

(SpotifyもYouTubeも内容は同じです)


一緒に観た相方から「もしあなたがよければサーカス回告知するときのnoteにこの覚書を入れて欲しい」と言われたので、以下に、相方が書いた「原作小説とアニメ映画の相違点にかんする文章」をそのままコピペして載せます。
……いやだなぁ、これじゃあまるで、ぼくだけが怠惰な「元」はやみねかおるファンみたいじゃないか(そのとおりです)。

なお、以下の「覚書」の内容についてわたしはいっさい責任を持ちませんのでよろしくおねがいします。


〜〜〜コピペ開始〜〜〜

今回のラジオでは、『原作小説と映画版との違い』みたいな観点にもわりと注目してあることないこと話したが、あまり不確かなことばかり言うのも気分が悪いので十数年ぶりに原作小説『怪盗クイーンはサーカスがお好き』を読み返してみた。
読み返してみて、「原作小説と映画版との違い」に関して気になったところがいくつかあったので、あくまで参考として、その気になったところを覚書としてしたためておく。網羅的な指摘ではなく、あくまで気になったところだけ。
映画のほうはメモを取りながら観なおすなどのことはしていないので、もし勘違いしているポイントあったらスマソ。

ま、映画はいつでもその映画単体として完結しているべきだ、と私は思っているので、映画『怪盗クイーンはサーカスがお好き』の感想を語るうえで、以下に記す覚書はあくまで参考のひとつ、決して必須の情報ではない。また、あくまで何かの参考にするための覚書であって、覚書だけを読んだところでとくだん面白い情報はない。あと当然ネタバレは満載なのでお気をつけて。

参照した書籍
『怪盗クイーンはサーカスがお好き』
はやみねかおる/作 K2商会/絵 講談社 2002


1.原作→映画 でたぶん省略されていた部分

星菱邸から宝石を盗み出す日時を予告状で「62日後」と指定した理由の説明
理由は「クイーンが52匹のネコを1日1匹ノミとりして、プラス10日間でネコの飼い主を見つけて譲渡するため」。原作小説では、クイーンが全く個人的な理由で「62日後」と指定しているのに対し上越警部が理由を無駄に勘ぐってしまう、という描写があるが、映画版では上越警部だけでなく観客まで無駄に勘ぐってしまう。罪作りなクイーン。

予告状にクイーンの携帯ストラップが同封されていた理由の説明
理由は「テレビ局がクイーンの犯行を報道する特番を組んだときに視聴者プレゼントにする携帯ストラップの見本を同封するというクイーンのお節介」。クイーンの目立ちたがり屋なところなどがよく表現された描写だと思うが、最近は携帯ストラップのことを知らない若者も多いらしいし、映画版ではストラップの存在そのものを省略したほうが良かった気がする。

星菱邸に侵入するセブンリングサーカス団員の描写
映画版の星菱邸侵入シーンでは、はっきり描かれたのは催眠術師と猛獣使いの活躍のみで、その他の団員(マジシャン、竹馬男、かぎ師、軽業師、力男)の活躍は分割画面でちょろっと映っただけだった。というか、星菱邸から宝石を盗み出すのは催眠術師ひとりで十分だった気がするのだが、他の団員は何をするために侵入していたのだろう?
小説版ではセブンリングサーカスの宝石窃盗計画がもう少しだけ詳細に描かれている。

セブンリングサーカスは政府管轄の秘密機関であるという設定
「セブンリングサーカスは、表向きにはただのサーカス団だが、裏では日本国政府の命令で汚れ仕事を行っている。その技術力の高さは各国でも噂になっており、ぜひ自国に招聘しようという国も少なくないため、日本国政府としてもセブンリングサーカスを海外に出すわけにはいかない。黒田は政府側の代理人としてセブンリングサーカスの動きを見張っている……」という設定が映画版ではまるまるオミットされている。

クイーンの兵器窃盗
原作小説では、終盤、クイーンが内乱が続く地域から武器弾薬地雷等々を盗み、一時的に戦争能力を奪う、という描写が存在するのだが、映画版ではみるかぎりそういった描写はない。
クイーンが(一時的とはいえ)戦地から戦争を盗むことすらできるとしたら、怪盗の能力がこの上なく高いということなので、そんなカッコイイシーンは映画でも観てみたかった。反面、「超人がひとりの力で戦争をなくせる、というアイデアは欺瞞的すぎやしないか?」とか「超人がひとりの意思で戦争をなくしたところで、それは平和とは言えなくないか?」とか思って、そんなシーンないほうがいいのかもと思う気持ちもある。
ちなみに、武器弾薬地雷等々を盗みの獲物にするのは、クイーンとしては「怪盗の美学に合わない」ことらしい。カッコイイと思うんだけどな?


2.原作→映画 でひょっとすると省略されていたかもしれない部分

トルバドゥールから地上への降下方法
原作小説では、「クイーンやジョーカーがトルバドゥールから地上へ降りるときは、ワイヤー一本で超高速懸垂降下する」という旨がはっきり描写されているが、映画版ではワイヤーの存在が確認できなかった。星菱邸侵入時など、クイーンがワイヤーなしでトルバドゥールから直截地面に着地しているように見えた。私がぼーっとしててワイヤーを見逃しただけか?

ワイン瓶の切断方法
私は「クイーン(およびアンプルール)は手刀だけでワイン瓶を切断する」と思い込んでいたのだが、少なくとも、『サーカスがお好き』原作小説だけを読み返した限り、クイーンは、手刀というよりも、何かしらその場にある細いものを高速で振ることでワイン瓶を切断しているらしい。
映画版では私のイメージ通り「純粋な手刀でワイン瓶を切断している」ようにとれる描写だった。

セブンリングサーカスの「セブンリング」の意味
サーカスの中央の舞台が大きな七つの円形で構成されているから。
こういった情報は文での描写だとわかりやすいが、映像でみせられてもわかりにくい。映画版で七つの円形が描かれていたか否か思い出せない。

団長ホワイトフェイスの靴音の不自然な金属音
文での描写ならばホワイトフェイスの足音が少し不自然であることをさりげなく伏線にしやすいが、映像でホワイトフェイスの足音を伏線にするのはやや難しい。映画版で靴音が特徴的に描かれるシーンがあったか否か思い出せない。

クイーンが芸人へのシンパシーを吐露するシーン
原作小説には、クイーンが初めて訪れたサーカスで「サーカスを観ると血が騒ぐ」「自分がえんぎをしているところを想像してしまう」「自分の先祖は旅芸人に違いない」といった旨を語るシーンがある(この示唆はのちに『夢水清志郎事件ノート』シリーズでもう少し直接的にほのめかされることになる)。一方映画ではクイーンがサーカスへのシンパシーをはっきりと語るシーンはなかった気がする。
セリフではっきりと言っている小説版よりも、行動と映画のタイトルでさりげなくシンパシーを示したととれる映画版のほうが上品で好き。


3.原作→映画 で変更された部分

RDがことわざの意味を知っているか
原作小説では「クイーンがテキトーに間違った知識でことわざの意味を解説しているとき、意味を正しく知っているRDは苦笑しそうになる」というシーンがあるが、映画版では「クイーンの解説が間違っているような気がしているが確信を得られず、困惑している」というようなニュアンスのシーンになっている。
映像的なわかりやすさを優先した結果だろうか。

黒田の質問の意図の説明
黒田が、誰がクイーンの変装であるのか特定するためにある質問をするのだが、映画版ではどういう意図の質問かをほぼ説明したうえではっきりと質問しているのに対し、小説版ではさりげないさや当てという感じで質問している。

本物の岩清水刑事がクイーンに誘拐されているとわかるタイミング
「サーカス会場にいる岩清水刑事はジョーカーが変装した偽物」という情報は、映画版でもわりと早めにわかりやすく示唆されてはいたが、小説版ではもっと早く、サーカス会場が描写されるよりも前に誘拐された岩清水刑事が描写されている。そのため、原作小説においては「誰がジョーカーなのか」という推理要素はなく、「誰がクイーンなのか」という推理要素に比較的集中している。

伊藤女史の演説
中盤、伊藤女史が西園寺記者に対して急に抹香臭いことを語り始めるシーン。伊藤女史が主張している内容が映画版と小説版とで若干変わっている。
映画版では、「戦争はアカン」という主張にフォーカスが当たっていて、伊藤女史の抹香臭さがかなり強めな代わりに、終盤で表面化する反戦メッセージの唐突さを少し和らいでいた。小説版では、代わりに「自決主義の若干の擁護」「国民主権の若干の擁護」あたりにぼんやりとフォーカスが当たっていて、伊藤女史の抹香臭さが若干抑え目な代わりに、伊藤女史が急に主張を語り始める唐突さが際立っている。

催眠術の威力
原作小説では、クイーンが他人であるシャモン斎藤を変装させたのは、マスクによるメーキャップと催眠術による暗示の併用だった(シャモン斎藤が変装対象とたまたま同じ身長であることを示唆するシーンもさりげなく挟み込まれている)。映画版では、クイーンはこの変装を催眠術オンリーで乗り切っている。見た目まで完璧に別人に見せる催眠術は便利すぎる!

重大ヒヤリハット事案の原因
作中では「ライオンが檻から逃げ出して子どもを襲いそうになる」「軽業師がパフォーマンス中に高所から落下しそうになる」という2つの重大ヒヤリハット事案が発生する。映画でも原作小説でも、2つの事案はセブンリングサーカスの安全管理が不徹底であったために起こった事案であり改善を期待したいところなのだが、映画版よりも原作小説のほうが事案が比較的納得できる原因によって起こっており、セブンリングサーカスに多少は同情できる。


4.原作→映画 で追加された部分

『はやみねかおるワールド』の人物のカメオ出演
はやみねかおるの小説作品の多くは世界間を共有していて、作品に登場人物たちは各小説シリーズの枠を越えて積極的に共演している。
『サーカスがお好き』原作小説でも、新聞記者の伊藤女史や刑事の岩清水、上越警部などが他作品からのコラボ、あるいは輸入として登場しているが、映画版では彼らに加えて何人かのキャラクターがセリフなしで姿のみ登場している(はっきり映ってるしこういうのカメオって言わないか?)。私にわかった限りでは、名探偵夢水清志郎や倉木博士、探偵卿など。

岩崎家の三つ子のゲスト出演
はやみねかおる作品のなかでも特に人気が高い(よね?)『夢水清志郎事件ノート』より岩崎家の三つ子がセリフありでゲスト出演している。
三つ子が部外者ながらサーカス団のバックヤード見学に招待される、というシーンも映画版の追加要素。バックヤード見学のシーンがあるので、上越警部の「(このサーカス公演の警備は)水も漏らさぬ警備だ」というセリフがえらく不自然なセリフになってしまっている。
中盤でライオンに襲われる子どもも、原作小説の名前なしキャラから映画版では三つ子のひとり亜衣に変更。

クイーンが星菱邸から宝石を盗み出すために当初にたてていた計画の説明
映画版ではクイーンがジョーカーに対して窃盗計画を事前説明するシーンがあるのだが、そのあとの描写をみるとあまり計画通りに動いている感じがしなくてけっこう不自然(もちろん、セブンリングサーカスという想定外の要素に対してクイーンが臨機応変に対処しているわけだから、ある程度までなら事前の計画と違う動きをするのは納得できるのだが……)。
小説版では、「この程度の仕事クイーンがミスることないだろう」と思っていたのか知らないが、ジョーカーはクイーンに窃盗計画を質問することもなく、クイーンが星菱邸に出発したのだけを見届けるとすぐに寝室に入っている(前日までの仕事で疲労しているため)。

クイーンがパジャマでどや顔を決めるシーン
クイーンがどや顔を決めた直後にジョーカーが「パジャマでどや顔を決めてもサマにならない」旨にツッコミを入れる。予告編(→https://www.youtube.com/watch?v=_XUXfkbCbhE)にも使われているくらいだし、アニメ化ならではのギャグシーンとして追加されたのだろうが、クイーンは超絶美形なのでパジャマでも十分サマになっている。

軽業師の夢
原作小説では、演技中に落下しそうになった軽業師がクイーンに助けられた直後、クイーンに向かって「演技中のミスで危険な目にあったとき、白馬の王子様が助けに来てくれるんじゃないかといつも思っていた」といったロマンチックなことを急に語り始めるのだが、映画版ではもう少しあっさりとした感謝の言葉になっている。
正直なところ、原作小説のこの描写は何をしたかった描写なのか理解に苦しむ。強いてどちらかというなら映画版のあっさりした感謝の言葉のほうが好き。

RDの擬人化アバター
のちの「怪盗クイーン」シリーズではRDの擬人化アバターは原作小説中でも登場するらしい(未確認)のだが、『サーカスがお好き』原作小説の時点では、RDはまだ擬人化アバターを獲得していない。映画版の最後でRDの擬人化アバターが登場したのは、ラストのオチというか、一種のサプライズ要素だったのだと思う。
終盤で、ひと仕事終えたRDが「私に人間の身体があったら湿布を貼っている云々」と言うセリフは原作小説にも存在するが、映画版ではRDの身体が存在することで、ジョークとしてより効果的になったような気もするし、逆にジョークとして劣化したような気もする。


5.その他 原作の特徴的な表現など

西園寺の立ち位置
西園寺記者はこの『サーカスがお好き』で(たぶん)初登場のキャラクター(原作小説では伊藤女史とは初対面だった)。また、原作小説『サーカスがお好き』の6割がたは西園寺の一人称視点で語られている。実は西園寺の正体はクイーンだったわけなので、結果的にいえば小説中のほとんどの時間でクイーンが出演し続けていたことにもなる。
映画版では語りの視点はもうちょっとぼかされていて、「映画の後半はほとんどクイーン観られなかったなあ」という印象がなくはない。

クイーンへの三人称
クイーンは性別不詳なので、原作小説でクイーンのことが“彼”とか“彼女”とか呼ばれる描写は避けられているような気がした。
でも『サーカスがお好き』中で少なくとも一回はクイーンが“彼”と呼ばれている文を発見できた。他のシリーズ作を読めばもっといくらでも見つかるかもしれない。

序盤と終盤の女の子
ホワイトフェイスが序盤で“約束”を交わした女の子と全く同じ見た目の女の子が終盤(おそらく十数年後)にも出てくる。実は終盤の子の女の子は序盤の女の子の娘であり、“約束”が世代を越えて果たされるという感動的なシーンになっている。
これを観たとき、私は「でもさすがに母娘で全く同じ見た目だと、母娘だということが観客にわかりにくすぎて制作者の意図からずれるのでは?」と思った。が、実は原作小説においては終盤のシーンは「ホワイトフェイスが十数年前と全く同じ見た目の女の子を見つけてしばし呆然とする」と描写されているので、序盤の女の子と終盤の女の子が同一人物だと勘違いするぐらいのほうが制作者の意図通りではあるのかもしれない。


6.感想

あえて映画版と原作小説を比較してみて思ったことは三つ。
一つ目。「多様な個性・技能の集まりとしてのサーカス」という要素が映画版ではあまり表現できていなかったということ。細かく全部挙げることはしないが、ここまで書いてきた部分以外にもいくつか、セブンリングサーカス団員の活躍が映画化にあたって減らされている部分は多くて、ちょっともったいなく感じる。
二つ目。、原作小説における「誰がクイーンなのか?」「ホワイトフェイスの真意とは何か?」といった推理要素を映画で再現することはあきらめて、そのぶんのエネルギーを「クイーンは誰にでも変身できる」という属性そのものの魅力を描くことに割いていたということ。小説におけるトリックを映像でまったく同じように表現するのは困難であるから、まあ妥当な改変なのかなあとは思う。でも“謎解き”シーンのショー性がなくなってしまうのはやはり残念。
三つ目。いろいろ不満は感じるが、60分という尺に収めるためには仕方なかったのでは、ということ(これはフォローではまったくない)。

〜〜〜コピペ終了〜〜〜


すごい情熱やな〜〜(他人事)




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