"ポストボカロ"とその周辺についての自己解釈
※サムネイルはこないだ一人旅で行った千葉の江川海岸のエモい風景です。ボカロともポストボカロとも全く関係ありません。強いて言うならポストアポカリプス?
【3/6(投稿翌日)追記】
Twitter等での皆さんのご意見・ご感想を見つけられる限り読ませて頂いて、はじめにアップロードしたものからところどころ文章に手直しをしています!
(タイトル自体も不適切であるというご指摘を頂いて、その通りだと思いますが、流石にタイトル変更は更なる混乱を招きそうなのでしません)
議論の元となるテクストが知らないうちにどんどん変化するのは控えめに言っても非常によろしくないのだろうとは思いますが、ご容赦下さい。私の方でも考えが変わったり、「ここは直すべきだよな〜」と思ったものを放置したくないので。
随時更新するかわりにこれがちゃんとした議論の土台となる資格を捨てた、と思って下さい(元からそんなもんあったのか…?)。それで構いません。なんかうだうだ悩んで考えてるガキがいるな、くらいに思っていただければ十分です。
【はじめに】
私が初めて「ポストボカロ」という単語を知ったのは、今年のはじめにしろばなさんがした以下のツイートからでした。
(ツイート掲載許可とってないのでダメだったら言ってください…)
ツイッターで検索すれば分かりますが、「ポストボカロ」という単語を持ち出す人はもちろんずっと前からいます。各自がふわっとその単語のイメージを了解して言及していたようです。
というか、("ボカロ"の意味する範囲がいまだ厳密に定まらないように)これからも"ポストボカロ"の意味するところがちゃんと定義されることは無いでしょう。
あくまで私は、以上のツイートで初めてポストボカロという単語に触れたわけですが、触れた瞬間、自分のなかで腑に落ちる感覚がしました。
というのも、ここ1,2年間、自分のなかで何となく感じて考えていたモヤモヤが、「ポストボカロ」というひとつの言葉によって一気に紐付けられ、明確に形を与えられた気がしたからです。
何となくモヤモヤしていたというのは、昨今界隈を賑わせている「ボカロPのセルフカバー/本人歌唱、アーティストデビュー」にも関わることです。しろばなさんが言及している「長谷川白紙」「ずっと真夜中でいいのに。」はボカロPの本人歌唱アーティストではありませんが、私はその件とポストボカロという単語を(勝手に)結び付けて考えました。
というわけで、このnoteでは件のツイートを見てポストボカロからごく個人的に連想したあれこれについて、吐き出していきます。そのため…
【ちゅうい】
・このnoteはポストボカロとは何か定義したり説明したりするものではありません
このnoteを読んで「ポストボカロ」について何か知った気になるのは間違いです
・このnoteは批評文でも評論でもありません。学のない若者の単なるお気持ち文章です。それ以上の水準を勝手に求められて肩透かしを食らっても「だから言ったのに…」となることを申し添えておきます。
・昨今のボカロP本人歌唱、メジャーデビューの風潮に対して「あっ、このことかな」とポストボカロの意味を勝手に解釈し、その周辺のことがらについて雑多に書き散らしたものです。まとまっていないし、結論もありません。
・したがって、もし既に「ポストボカロ」に対してイメージを持っている方が「おっ、あのことかな…」と読み始めて、全然違う内容だった、ということがあり得ます。十分にあり得ます。「時間ムダにした〜!」となる可能性が大いにあることをあらかじめご了承ください。
また
・この記事は平田義久さんの「ボカロそんなに好きじゃない」発言とは(直接は)関係ありません。
したがって、そのツイートに端を発する議論に関わる何かだと思って読まれている方は申し訳ありませんがブラウザバックをするか、「その件とは関係ない」ということを心に留めて以下お読みください
というのも…
私は、平田さんの少し前にすりぃさんが投稿された以下のツイートが、本来ならば議論の中心になるべきだった、と考えるからです。
つまり「ボカロPが自身のボカロ曲を歌い出す(セルフカバーする)風潮について良く思っていないボカロリスナーの存在」についてです。
平田さんはそもそも自身で歌っていないので、この件とは本当は関係がないはずなのです。Twitterってこわいですね
では本題に入ります。
私が「ポストボカロ」から連想・イメージしたのは、既にチラッと言及したボカロPのセルフカバーや本人歌唱でのアーティストデビューについてです。
ここ数年間、ボカロPがボカロ曲のセルフカバー版を投稿したり、人気を博することによって本人歌唱でのメジャーデビューを果たしたりするケースが相次いでいることは周知の通りかと思います。
「シャルル」の大ヒットによりメジャーデビューした須田景凪さんや、ボカロP有機酸として活躍の後、本人歌唱でのデビュー作「YELLOW」が大ヒット中の神山羊さんなどがまず挙げられると思いますが、そもそも今や国民的アーティストまで上り詰めた米津玄師(ハチ)さんもそうしたパターンのボカロPの、比較的初期の例に当てはまりますよね。
また、ボカロP自身が歌うパターンだけでなく、ヨルシカを立ち上げたn-bunaさんのように人間のボーカリストと共にバンドを結成するパターンや、ずっと真夜中でいいのに。のように作編曲の一部にボカロPが関わるパターンも見られます。
私が今回取り上げるのは、こうした「(現役・元 問わず)ボカロPが直接関わっているアーティスト」に限ります。
つまり、しろばなさんが例に上げた長谷川白紙さんのように、元ボカロPとかではなく直接はボカロとは関係のないアーティストのことは、とりあえず本noteでは特に考えない、ということです。
で、結局私は何にモヤモヤしていたかと言えば、ボカロPが様々な別の形で活躍していく風潮に対してです。ボカロシーンで多くのファンがついたPたちが、次々と自分でマイクをとり、そしてボカロを捨て…というのは色々と波紋を呼びそうなので、ボカロから距離を置き、としておきますが、そうして(一部は)メジャーデビューしていく。更に一部はメジャーで活躍し、果ては紅白まで出場するようになる。
決して、こうしたアーティスト達を非難したいわけではありません。むしろ、個々のアーティストの方々は純粋に応援してさえいます…多分。
ただ、なんだか、そうした例が増えていくことに対して、漠然と、言葉にし難いモヤモヤした思いが自分のなかに巻き起こっているのも事実です。
前述のすりぃさんのツイートにあったYoutubeのコメントは、その漠然としたモヤモヤに対して「ボカロの趣旨となんか違う気がする」と言語化・理由を付けているわけですが、私はこのコメントには賛同できません。「ボカロの趣旨」という的外れな"NGワード"を持ち出した時点で論外だと思っています。ですが、この意見の根っこにある気持ちは分かる気がするのです。(本人でないので、本当のことは分かりませんが)
おそらくこのひとも、まず私と同じように、最近の"ポストボカロ"の流れの一部であるボカロPのセルフカバーの風潮に対して、なんだか名状しがたいもやもやを抱いたんだと思います。それで、あとから理由を無理やり付けて大好きなボカロPのコメント欄に書き込んだのですが、そのあと付けを"間違えて"しまった、ただそれだけだと思います。
だから、決してこのコメントに賛同は出来ませんが、でも、根っこには(勝手に)共感しているのです。
さて、ここまで読んだ皆さんはどういう反応をするでしょうか。
・「わたしも〜分かる〜」派
・「いや、分からん。そんなモヤモヤを抱くほうがおかしい!」派
・「ふーん…ま、自分にはどうでもいい話題だな…ボカロ新曲漁ろ」派
などなどいらっしゃると思いますが、ちょっと3つ目の人には言いたいことがある
それは
この「ボカロPがボカロから離れる」問題は、ボカロ曲にこだわって聞いているリスナーが抱える本質的な矛盾とも深く関係がある
と考えるからです。
ボカロリスナーの抱える矛盾
私は主に「キャラクターとしてのボカロ」よりも「音楽としてのボカロ(曲)」が好きです。ここ数年間は、日常的に好きなボカロ曲を聞くほか、気が向いた時にニコニコ動画で新曲漁りをしています。(過去記事「いかにしてボカロを漁るか」、「ボカロ深夜便」参照)
決して「キャラより曲が好きでないとボカロリスナーを名乗ってはいけない」というわけではありません。(ボカロを定期的に聴いてればボカロリスナーなんじゃないでしょうか、知らんけど。)
ですが、私が以前Twitterで仲良くさせて頂いていたボカロ好きの界隈の方々は、比較的、私のような「音楽メインでボカロシーンに入り浸っている人」が多かった印象です。そして、このnoteにおいて主に対象になるのは、それらのタイプのボカロファン、ボカロリスナーです。
ここで、はたまた些か突然ですが、そうしたボカロリスナーの皆さんは、ボカロ曲に興味がない人にボカロ音楽をどのように薦めますか?
「自分は別にボカロを広める気は無いんで…そもそも薦めません」ってのはナシで。あくまで「もし薦めるとしたら」の話ね。
で、私にはまえまえから温めていた「ボカロ曲に興味がない人への謳い文句」があります。温めているのですが、依然として使う状況に陥ったことがありませんorz
温めっぱなしも勿体無いので、ここで大公開しちゃいたいと思います!
ボカロはあらゆる音楽ジャンルと才能のるつぼである。
「ボカロだから聞かない」のは、「左利きの歌手の曲は聞かない」とか「身長をcm換算したときの1の位(切り捨て)が偶数のアーティストの曲は聞かない」というくらいナンセンスなことだ。
この考え方、わりと気に入っていたのですが、致命的な欠陥に気付きました。
「ボカロだから聞かない」のが「左利きが歌ってるから聞かない」くらいナンセンスならば、「ボカロだから聞く」のも「左利きだから聞く」のと同じくらい可笑しなことなのでは??
と返されたらぐうの音も出ないのです。
この件から得られる教訓は「ボカロの普遍性を強調しすぎると、ボカロへのこだわりすらも寄る瀬が無くなる危険性がある」ということです。
「ボカロだから聞かない」のと「ボカロだから聞く」というのは、実は同じ穴のムジナなのでは?
耳の痛いボカロリスナーも多いのではないでしょうか。実際私はこれに気付いた時「うげっ」ってなりました。
で、
最近のボカロシーンの特徴として、
もはや「ボカロだから聞いている」わけではなく「そのアーティストだから聞いている」リスナーが多い
ということが挙げられると思います。特に、主にYoutubeで聴いている若いボカロリスナーは、もはや自分たちのことをボカロリスナー(あるいは死語を使えば"ボカロ厨")であると自認している割合がかなり低いのではないでしょうか。
要は、ボカロP・視聴者の相互理解として「アーティスト気質」のボカロ曲が享受される環境になってきているということです。最近活発なflowerについての議論も、この辺りと決して無関係ではないでしょう(雑に巻き込んでいくスタイル)
で、
またもや些か突然ですが、皆さんは、ボカロシーンの本質って何だと思いますか。
もちろん1つにズバッと絞ること自体がアレですが、私は
様々なアーティストが自由に音楽を発表できることで生まれる多様性
が本質だと思っています。(だからこそのあの謳い文句でした)
少なくとも、私はこの自由さと多様性があるからボカロシーンが好きです。
で、以上の文を見てみると、「ボカロシーンの本質」なのに「ボカロ」という文字・要素がどこにも入っていないことに気付くと思います。
ありゃりゃこりゃだめだ、撤回撤回ってなるのも良いんですが、ちょっと強引に、それでもなお、これがボカロシーンの本質だと認めてみるとどうなるでしょうか。
すると、「ボカロシーンはそれ自体、ボカロとは別の面に本質を持っているという倒錯性をうちに秘めている」ということになります。
わたしは、このシーンに内在する本質的な倒錯性こそが、ポストボカロの流れを引き起こしている、と考えます。
すなわち 昨今のポストボカロの台頭は必然 なのです。
言い換えれば、ボカロシーンの本質のひとつである「様々なアーティストが商業的なしがらみに囚われず自由に音楽を作って発表できる」という側面がインターネット・スマートフォン・Youtubeの普及などによりさらに先鋭化・拡張することで、ボカロを使わなくともボカロの本質的なメリットが享受できるようになり、その結果としてポストボカロの波が来ている、ということです。
ここでYoutubeの名を出しましたが、ボカロシーンに欠かせないニコニコ動画との(よくある)比較をおさらいしてみます。
Youtubeとニコニコ動画
・ほぼ無名のボカロPはYoutubeよりニコニコ動画のほうが伸びやすい
・ある程度ファンがついたPはニコニコ動画よりYoutubeのほうが伸びやすい
というのは色んなところで広く共有されていることであり、もちろん例外とか反論の余地はあるんですが、ここではとりあえず認めることにしましょう。
これを認めると、ボカロPが売れる一般的なルートが見えてきます。つまり、
まずニコ動である程度の知名度を得てから、Youtubeのファン層を開拓しつつセルフカバーを増やして本人歌唱に切り替えていく
というものです。最近はこのパターンでワンマンライブまで成功させるPも増えてきましたし、よく考えたら米津玄師さんが辿ったのは完全にこのルートですよね。
米津ルート:ニコニコ動画→Youtube→メジャー→お茶の間(紅白など)
と勝手に名付けるのは怒られそうですが…。
で、このルートを辿るボカロPが続々と増えていくのがポストボカロ(の一面)だとすれば、ボカロシーンの将来像が見えてきます。
あ、「ボカロシーン」と呼んでいますが、私がここで意識しているのは基本的にニコニコ動画のボカロシーンのことです。というか、
Youtubeに"ボカロシーン"はない
とすら思っています。Youtubeには個々の「ボカロ動画」はあっても、それらを体系的に供給-享受するボカロP-リスナーの相互関係の場(シーン)は今のところ存在しているとは言えない気がします。タグの機能がもっと整理されればYoutubeにも今後ボカロシーンが生まれる可能性はありますが…
で、米津ルートが一般化することによって、ニコニコ動画のボカロシーンの役割は「無名のアーティストから光る原石を発掘する」ことが大きなウェイトを占めることになるでしょう。
ニコ動が現時点でYoutubeに勝てる要素はそこくらいしか無いので。
つまり過激な言い方をすれば「売れたいボカロPにとってはある程度伸びたらもうニコ動やボカロは必要ない」ということです。これが世に言うボカロ踏み台論あるいはニコ動踏み台論ですね。
たしかに、踏み台という言葉の悪い意味での"強さ"はあるにしろ、このような論争が巻き起こるのは必然だったと思います。決して、誰かの失言で「踏み台論」が荒れたのではなく、これからのボカロシーンが多かれ少なかれ向き合っていかなくてはいけない大切な問題なんだと思います。
で、誤解を恐れずに「ニコ動・ボカロは所詮は才能のある無名のアーティストを発掘する場でしかない」としてしまえば、私はいちリスナーとしてこうしたボカロシーンの展望を寂しく思うのです。同じような感慨を抱くひともいるのではないでしょうか。
しかし、ニコ動・ボカロシーンがこのような役割(メジャーへの橋渡し・踏み台)を果たすことを肯定的に捉える人もいます。例えばutakikiさんの以下のnoteでは
「ボーカロイドの歪み」をキーワードに、興味深い考えが述べられています。
utakikiさんの「「歪み」はボカロ音楽の個性である」という主張は、よくよく考えてみれば上記の私の「ボカロはなんでもある多様性こそが魅力!」という意見と真反対ですね。というか、utakikiさんの意見のほうが正しいと思います。「なんでもある」ように見えて、実は(or当然のことながら?)ボカロ音楽は非常に偏った音楽シーンである、ということですね。その通りだと思います、はい。
で、引用したのはこのためじゃなくて、「ボカロシーンの歪みはシェルターである」というutakikiさんの主張のためです。
要するに、ボカロのメインストリームは「歪み」に満ちあふれているけど、その「歪み」こそがマイナーボカロシーンへのシェルターとなって、その下ではいまこの瞬間にも、めちゃくちゃ面白い多様で自由なボカロ曲が生まれ続けているよ、ということだと私は読みました。
つまり、ここまでくると今度は私の「ボカロ音楽の本質は多様性!」論と相性がいい、という風にも捉えることが出来ます。
整理すると、utakikiさんはボカロのメジャーシーンとマイナーシーンを(便宜的に)分けて考えており、私ははじめからひっくるめて考えていたために、このように意見が対立したり合致したり思える事態が起きたわけです。
で、私が上のnoteを読んだ限り、utakikiさんは「ニコ動・ボカロシーンがメジャー志向アーティストの踏み台にされること」に対して肯定的に捉えているように思えます。当たり前ですが、全リスナーが踏み台にモヤモヤしているわけではなく、むしろ大歓迎という層も存在するわけですね。これが非常に興味深い。
つまりutakikiさんは、
踏み台としての機能があることで、ボカロシーンに新陳代謝が生まれ、シーンの恒常的な活性化につながる。また、そのおかげで"音楽の楽園"たるマイナーボカロシーンは守られる
というような思考のもと、
ボカロシーンでは、ボカロを「踏み台」にしてやろうという、野心ある優秀なクリエイターをお待ちしています。
と書いているのでしょう。(違ったら指摘お願いします)
で、この意見・主張はたしかにとても妥当というか、「米津ルート」を目指して多くのアーティストがボカロシーンにやって来るのはどう考えても"良いこと"だと私も思います。
確かに、いちリスナーとしての私情を挟まずに客観的に考えたら、「メジャーへの橋渡しができる音楽シーンとしてのボカロ」ってめちゃくちゃすごいことだし、誇るべきことなのでは?と思います。
でも、それはそれとして、寂しく思うのも事実…
です。あくまで私は、の話ね。
ここまではリスナー目線ですが、ここで視点を変えて当のボカロPの立場になって考えてみましょう。
ボカロP(アーティスト)からしてみれば
まず「売れたい、お金がほしい」というのは大前提でしょう。もちろんなかにはマグロジュースさんのように「しがらみなく自由に創作をしたい」という理由でボカロ(UTAU)曲を作っている人や、またキャラ愛が溢れている古典的な意味でのボカロP勢もいますが、ここでは例外とします。
大多数のボカロPからしてみれば、行けるならば米津ルートを進みたがって当然です。自分がもしボカロPだったとしても、お金や名声が手に入るならそうしたいです。そこは否定しようがない。
ある程度ボカロで伸びたら本人歌唱に切り替えて、ボカロを捨ててメジャーデビュー!を夢見て"当然"なんです。決して「ボカロを裏切った」とか言って彼らを糾弾することは出来ません。
ボカロPは全自動作曲マシーンでもボカロの奴隷でもなく(ミクさんの奴隷になりたい勢は大人しくしてて)社会で生活する人間であり、生きていくには、音楽を作るにはお金が必要です。自己顕示欲もあるでしょう。売れるなら売れたいし、自分を肯定されたいし、第2の米津玄師になりたい。当たり前です。
(先日の和田たけあきさんたちの記事もむべなるかな、と思います。もちろんそれぞれの微妙なスタンスの違いもあって興味深かったです)
だから、「ボカロPが歌うのはダメ」という主張は、あらゆる意味でリスナーの僻みに過ぎず、正当性はまったく無いのです。
でも
それはそれとして、寂しく思うのは事実…
というわけで、整理します。
なぜ寂しく思ってしまうのか?
(繰り返しますが"あくまで私の話"であって、全ボカロリスナーが寂しく思ったり本人歌唱にモヤっているとは全然思っていません。そこのところよろしく)
考えられる限りの「モヤる理由のあと付け」を列挙してみます。
・ボカロの趣旨に反する(すりぃさんのYoutubeコメント)
→老害乙。擁護のしようがない。こういうリスナーの存在がボカロシーンをダメにするのは確か。
・単純に、本人の歌声よりボカロの歌声のほうが好きだから(純粋なボーカリストとしての好み・比較派)
→いちばん妥当な理由。P側からしても反論のしようがない。「そうですか…」としか。
でも、それならアーティストによっては「このPは本人歌唱のほうが好き!」もあり得る。つまりある意味もっともボカロにこだわらず、フラットに音楽と接している人たち。私個人としてはコレではない気がする。コレだったらいちばん穏当なんだけどね…とほほ
・結局ボカロを好きなんじゃなくて売れたかっただけなんだね…と思ってしまう派
→アーティスト側からすれば「そうだけど悪い?」としか返しようがない。件の平田義久さんのスタンスも近い。
この3つ目のやつは、前述の通りまったく正当性はありません。勝手に裏切られたように思うのは自由ですが、それを根拠にアーティスト側に突っかかるのは間違いでしょう。
で、ここで気付いたのは
一人ひとりのボカロP(の選択)に対して寂しく思うのか、
それらの集積によって次第に「結局ボカロって…」と寂しく思うのか
の違いです。よく考えたら私は後者に近い立場なのでは?と思いました。
アーティストデビューする各ボカロPに対しては「頑張れ」と思うし、もし自分がその人の熱狂的ファンだったら本人歌唱のほうが更に嬉しいかもしれないし…
少なくとも、各ボカロPの選択に対して文句を言うことはできない、言っても正当性はないと思います。戯言になるだけです。
このあいだの平田さんと御丹宮くるみさんの対談ニコ生で「本当にその人にボカロPを続けてほしいなら、金を払うべき」という発言がありましたが、ド正論でしょう。これを言われたら我々リスナーは何も言い返せませんし、私個人としても本当に好きなPに対してなら積極的にお金を払って応援したいと思っています。
ただ、その文句は言えない一人ひとりの(元)ボカロPたちの選択が積もりに積もっていくと、次第にボカロ(シーン)がないがしろにされている"ような気持ち"になってしまう。
このような過程が自分の頭のなかで起こっているのだと"解釈"しました。
私は、または同じような気持ちのリスナーは、ひっそりとこのモヤモヤを抱えて、表向きはそれぞれの推しボカロPを応援していくしかないのでしょうか…?
現時点では私も「その通り」としか答えが出せません。
なんだか、これって他人には言えない特殊な性的嗜好のオタクが、社会の陽なたではそれを隠して普通の人のように振る舞い、日陰でこっそりと慎ましく欲望を発散する…みたいなのに近いイメージですね。
ボカロシーンの行く末
仮に、このような「ボカロPがボカロを捨てる」ことがこれから相次いで、さらに主流化したとしても、"それが原因で"(ニコ動の)ボカロシーンが無くなることはない、と思います。(ニコ動が存続できるかは置いといて…)
なぜなら、新陳代謝が生まれ続けるから。むしろ「ボカロはメジャーへの足がかり」というフレーズの説得力が増せば、さらに多くのひとがメジャーデビューを夢見てボカロを使い始め、結果的にボカロシーンは活性化する、とさえ思います。
で、問題は、そうなったとして、それをutakikiさん達のように手放しで喜べるか、それとも私のようにモヤってしまうか。
何故モヤるかと言えば、それは「結局ボカロは人間の劣化版・代替品でしかない」ことになってしまう、ような気がするから、だと思います。
つまり自分は「ボカロ音楽が大衆に認められたい」んだろうなぁ、と思います。
紅白で千本桜が歌われたり、米津玄師が出たりする時代にはなりましたが、結局ボカロは歌っていません。もちろん、ボカロ黎明期からすれば大変な進歩であることはまちがいありませんが、でもこの進歩の更に先に、紅白でボカロ曲がちゃんと"ボカロ曲として"歌われる時代が来るのでしょうか?
(ここでの「紅白」は単なる記号なので、「そもそも今どき紅白の地位自体が…」とかいうのは的外れですし、私はキャラ好き派でもないので、別に具体的にミクさんたちがお茶の間にもっと登場してほしい!と強く思っているわけでもありません。このへんの微妙なニュアンスを伝えるのは難しいんですが…)
現状を鑑みると、結局は、少なくともメジャーシーンにおいては、ボカロはまだまだ認められていないように思えます。
たしかにボカロの"曲"やボカロPの"才能"は認められてきていますが、結局"さいご"は人間が歌うしかないのでしょうか???自分が望んでいるのは、メジャーにおいてボカロが(音楽として)認められること、だと思います。
でも、おそらく将来も含めた歴代ボカロPで"最強"の才能といってもよいハチさんですら、メジャーではボカロを捨てるしかありませんでした。
(自分で歌うにあたっての葛藤エピソードとかもあるだろうし、本人は"捨てた"と思っていないのかも知れませんが、ここで言いたいのはそういうことではありません)
ハチさんがハチさんのまま、ボカロPのまま、現在のように人気になり、紅白に出る世界線はあったのだろうか、とよく考えます。
…もしも話なのでナンセンスなのは前提として、やはり無理だろうなぁと思います。ハチさんの才能不足とかではなく、もっと根本的に、ボカロ音楽がメジャーで万人に認められるには壁が高すぎる…のでしょうか。
というか、ふと我に返ると
そもそも自分はそんなにボカロが大衆に浸透してほしいと強く思う派だったっけ?違うような?じゃあなんでこんなこと憂いてるのか???と思いました。
普段自分がボカロを聞いているのは、ボカロが万人に受け入れられるため、ではありません。いい曲にたくさん出会えるから聴いてるだけです。
でも、自分の好きなもの(ボカロ音楽)がたくさんの人に認められたら嬉しいのは事実です。にんげんだもの…
そういった思考回路のもと、現在進行系での流れを目の当たりにすると、"あたかも"自分の好きなボカロが否定されている"感じ"が自分の脳内で出力されてしまうのだと思います。この被害妄想は、幻想だからこそ解消のしようがない、手強い幻想です。
それが良いことなのか悪いことなのかという価値判断は(少なくとも自分は)できません。ただ、そういう現象が自分のなかで起こっている、というだけです。
ただし、それを外・他人に対してどう発散するか、というのは慎重に考えなければいけないと思います。(その結果、この通り超読みにくい文章を書いています)
少なくともすりぃさんの挙げたYoutubeコメントのようなことはあまりよろしくないと思うし、自己矛盾的なことを言えば、このnoteだって、もしボカロPの目に触れて「うっわリスナーめんどくせぇ〜」と思われてしまったら本末転倒なので、書かなかったほうがいいのかも知れません。
自分のような、最近の風潮にモヤるひとがすべきことはなにか??
・ボカロを捨ててほしくないボカロPに金を落とすべき
→それはそうだが、それでも本人がメジャー志向であれば、そしてメジャーでボカロは厳しい現状が続くのであれば、いくら金を落としたところでボカロ離れは止められない。
つまり、大前提として「(推しの)ボカロPがメジャーに行きたい意思があるのなら、それは我々には止める権利も能力もない」ということです。当然ですね。
そのうえで、「もしもお金をくれるのならばボカロを捨てないよ、本人歌唱メインのメジャー路線じゃなくてもいいよ」という人なのであれば、お金をじゃんじゃん払うべき。続けてほしいなら。平田義久さんはこのタイプだそうですね。
というか、ボカロPのままメジャーで継続的に活動している人も増えてきていますよね。DECO*27さんとかピノキオピーとか…。
こういう人たちは、わがままな私のようなボカロリスナーには理想的な存在です。が、彼らはあくまで超例外でしょう。
いや、もしかしたら、ボカロシーン自体がめちゃくちゃデカくなれば、そこから"卒業"することなくやっていけるデコさん達のようなボカロPが増えるのでは?とも思います。では、どうすればシーンが賑わうのでしょうか?
純粋なリスナー数増加のほか、ボカロPらへの支援システムの拡充も必須だと思います。pixivファンボックスとか。
というわけで、
私のようにモヤってしまう皆さんは、絶対にそれをボカロPに悟らせず、新曲を聞き、好きだったらそれをいろんな形で表現し、CDやライブなどでアーティストにお金を落とし、慎ましくボカロライフを送りましょう。
とりあえず、私が今回考えているのは以上です。
…もう疲れた。新曲漁りにいきたい…
【追記】
はじめにも再三ちゅういしましたが、このnote内での「ポストボカロ」は私が勝手に連想・解釈したものなので、これを読んで「ポストボカロ」について何か分かった気になるのは間違いです。
自分で書いておいてなんですが、このnoteの外では「ボカロPのアーティストデビュー」等のことがらを指して「ポストボカロ」という単語を使わないほうがいいと思います。警察に刺されても知りませんよ。
P.S.
#vocanote 1000件突破おめでとうございます!!!
ドンドン!パフパフ!!
ボカノートとは、ボカロにほんの少しでも関係のある文章(短くてもおk)ならジャンジャン付けていいタグです。
ここ note のほか、ツイッターや他ブログサービスでもvocanoteしちゃいけないなんて決まりは無いと思います、多分。
このnoteに関連した文でも、もちろん全然関係ない好きな曲語りとかも大歓迎!…というかむしろそれが主流です。今回はこんな文章を書いていますが、私も普段はボカロへの「好き!」を語るnoteをたくさん書いています。↓
これで初めてvocanoteを知ったという人、あなたもボカロ語りしてみませんか???
というわけで盛大なvocanoteステマでした。疲れた
<私信>
今週末に京都で開催されるボカスト、私も行くつもりなので会える人は会いましょう〜〜それでは〜〜
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