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TVアニメ『パリピ孔明』感想



1-3話
1話めっちゃおもろかった。設定勝ちなところはある。出オチともいう。
それを証明するように、続く2,3話は陳腐なスカッとジャパン展開でキツかった。「俺TUEEE」モノの「俺」の部分に、「俺達が知っている歴史上の偉人」=孔明を当てはめた発想は見事だけれども、見事なぶんだけキツさもある。スカジャパ展開のクサさを「だって孔明だから」という反知性的な権威主義によって隠蔽しようとしているところが……。
あと「孔明の策は確かにすごいけど、それでも最終的には英子の歌の実力あってこそなんだよなぁ」という視聴者の分かったようなコメントがめっちゃ嫌い。

というわけでいったん3話で見るのをやめて、1クール終わってから一気見することにする。

OPとEDの曲・映像はめっちゃ好き。気分上々↑↑いつ聞いても神曲だな・・・



約2か月後に視聴再開(残りを一気見)

4話
10万いいね企画始動回。SNS要素まじでやめてほしい。アーティスト/タレント要素だけでも胃もたれするのに。うっすいスポ根もきつい。


5話 ラップ回
ラップわりと良かった。ウンベルト・エーコの歌よりずっといい。コインランドリーでの洗濯機の音をビートにする発想すき。
なぜか画コンテも今回かなり良かった。同ポジションや引き水平カメラ。調べたら今泉賢一さん。(5話のみ) 『放課後さいころ倶楽部』の監督。あの花にも絵コンテ・演出・原画・第二原画で参加している人なんだ…。
あと最初のタイトルバックとED入りで再びタイトルバックするのかっこいい。


6話 ラップバトル回
めっちゃよかった!!フリースタイルバトル熱い!!! お互いにメリハリついてて良い。てか漢詩≒ラップという発想、和歌×ラップの名作漫画『Change!』じゃん。
赤兎馬カンフーさん(CV.木村昴)の解説もめっちゃ良い。
えーこのデフォルメ顔かわいい。赤塚不二夫みたいな。それと漢詩パートの水墨画?っぽい美術が上手い具合に調和してて良かった。

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カベくんの高校時代の回想パートの夏の雰囲気も大好き。

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7話
スティーブアオキ&路上ライブ回
新キャラの黒髪長髪の子かわいいし歌うまい
「勝手に警察から助けて迷惑だった!?」のえーこのデフォルメ作画がめっちゃいい。全コマかわいい

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一時停止めっちゃがんばった。途中つくみず絵みたいになってますね

えーこ、『ラブライブ!スーパースター!!』のすみれに似てて好き。
シナリオは相変わらず薄いけど、とにかくヒロインを可愛く描くことに命かけてるアニメだ。


8話
銭湯&修行回
いやぁ~~あのスケベ衣装アイドルのセンター、まじでななみんなのか……展開エロ過ぎるだろ・・・完全に二次エロ同人でみるやつじゃん。
あいかーらずえーこのデフォルメ表情が豊かでいい。


9話
アザリエななみエロ同人回
この作品の悪役みんなほんっとにペラッペラで民草も生えない。
前話の銭湯デュエット後も、今話の展望台歌唱のあともそうだけど、その場で聞いていたひとが集まってきて拍手するのほんと寒い。
えーこはななみんのために歌うことで真価を発揮したようだけど、「歌で人が救える」という思想をナイーヴに称揚していてきつい。
あと、悪いオトナにそそのかされてスケベ衣装を着てアイドルバンドやらされてるななみを励ますために歌うえーこも、このアニメでは明らかにセクシュアルな描かれ方をされているのがなかなかにえげつない構造だと思った。


10話 レコーディング回
赤兎馬カンフーとKABEの試合が大幅カットされてしまった・・・えーこの歌どうでもいいからこっちに割いてほしかった。
六本木うどん店(仮)、スティーブアオキの編曲が乗っかると余計にうすら寒くなっていよいよ限界。


11話 赤壁(109)対バン回
「英子…見ないでっ……わたしを、見ないで……っ」←どうかんがえてもエロ同人
KABEくん活躍した!! フリースタイルバトルはもともと相手を煽るものだし、「謀略」という意味でも孔明はえーこじゃなくてラッパーメインで組んだほうが題材に合っていたのでは?(とにかくえーこの「素晴らしい歌/パフォーマンス」を全肯定しようとする作品の態度が嫌い)
音楽そのものにそんなに人を動かす力はなく、結局はプロモーション(それこそ謀略)の次元で勝負が決まるということをきちんと理解して徹している唐沢P/アザリエ側のほうが遥かに応援できる。どうせ孔明に負けちゃうでしょうけど。
自分のやっていることが空疎でくだらないものだとわかっていてもなお全力でやりきる七海たちと、自分のやっていることが清くて善くて正しいことだと疑いもせず全力で歌う英子。少なくともわたしは前者のほうがよほど「正しい」し「感動する」よ。


12話 最終話
なんでこの作品がこんなに苦手なのかわかった。まごうことなき「アイドル」アニメだからだ。英子の扱われ方がめちゃくちゃ嫌いだったのは、英子こそが本当の意味での「アイドル(偶像)」だからだ。「アイドルバンド」であるアザリエよりもよっぽどアイドルやってる。英子の歌によってみんなが "光堕ち" していく。まさに偶像による宗教。

唐沢プロデュースのアザリエは、即物的な欲求に訴えかける衣装/意匠で釣ろうとしていたぶん、実はアイドルっぽくはない。もっと直球で正直に売り出しているから。英子のほうこそ、「純粋な」歌の力で大衆の支持を獲得する──という建前で、実際のところ、アニメにおいては英子の可愛さ/フェティッシュさが全面に押し出されている。(最終話で歌い終わったエーコに男性観客の1人が「かわいい~」と叫んだり、4話で10万いいね企画を首謀している大物Pがエーコを「Cuty」と評したり、ところどころでそれをこっそり宣言しているようにも思える)

でも、あくまでアザリエとは違って、それを自覚している素振りを大々的には見せてはいけない。それが「偶像」の要件だから。偶像はあくまで自身を「崇高」で「けがれのない」存在としてプロデュースしなければならない。この作品は、ド直球のアイドル=宗教アニメをやっている。(英子の中の人がフランシュシュのセンターなのは何の因果か。)

でも、アイドルアニメなんてオタクは見飽きているから、上辺の新規性の見せかけのために、オタクが好きなアイドルとは一見対照的っぽい「パリピ」という概念を借りてきて被せたのだろう。「言うほど孔明は全然パリピじゃない」と言われてるのはその通りで、『パリピ孔明』という作品自体が、本質のアイドル要素を覆い隠すために、中身の伴っていないパリピの意匠で装飾したアニメであるということだ。



というわけで、ほんっとうにおぞましい作品だったわけだが、しかし、この作品は、おそらく作り手の意図とは無関係のところで、そうした「アイドル」性へのアイロニーをも内包していると読める余地がある。「10万いいね企画」という勝負の枠組み設定のことだ。

えーこが歌い切って渋谷の聴衆を感動させたところで、その感動の高まりに並走するように、Twitterでの「いいね」数が10万に向かってぐんぐん伸びていくさまが映る。

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おそらく、普通に盛り上がりの演出/説明のために描いたのだろうけど、自分にはこのシーンは、そんな「素晴らしい」えーこの歌も、SNS上の拡散数というこの世でもっとも空虚な単線的な数値のもとで(のみ)、その価値が担保され表現されることしかできない、というきわめて皮肉な事実を鮮やかに示しているように思えた。

えーこと七海の熱い思いがぶつかり合う赤壁109の戦いも、結局は「いいね」数の稼ぎ合いというしょーもない形式に回収される。最後に孔明が「いいね返し」をしたのも、与えられたいいね稼ぎ勝負を止揚するのではなく、むしろ最後まで「いいね=価値のあるもの」という枠組みを補強する結果にしかなっていない。

えーこ/孔明の主人公陣営(「正義」陣営)は、歌で人を感動させることを(アイドルアニメ的に)素直に肯定している。孔明がいろいろと謀略を図りはするが、最終的には英子の実力である、というスタンスであることがその証左だ。

対するアザリエ/唐沢Pのライバル(悪)陣営は、音楽なんて結局はプロモーションの次元ですべてが決まる空虚なもの、「ビジネス」でしかないというスタンスで望み、最後にはえーこの宗教ソングによって教化される。

しかし、上述したように、一見最後には否定されたように思える「ビジネス」思想は、実は英子たちのほうにも終始巣食っている。このアニメ企画自体がひとつの大衆ビジネスであることを指摘するのはさすがに販促…反則かもしれないが、しかしツイートの「いいね」数が10万に向かってぐんぐん伸びていく「画」に、どれだけのひとが100%の「良さ」を見いだせるだろう?

結局は、音楽とは宗教的な要素もビジネス的な要素も両方存在し、それらが分かちがたく結びついているのだという中庸の見方が妥当だろう。(そもそも宗教って世界でもっとも成功したビジネス体系だしね。)

そんな、「善さ」も「空虚さ」も包含して存在するさまを端的に示すように、仮面を脱いだ七海たちアザリエは、あのドスケベ衣装のままに青臭いロックを歌う。唐沢の呪縛を断ち切り仮面を剥いで自分たちの手で音楽をかき鳴らしても、見る人を欲情させる滑稽な衣装は脱ぐことができないし、最後に「本当のアザリエ」の音楽に「感動」して集まった聴衆も、やはり孔明が即興編集したプロモ映像がTwitterに拡散されることで確保された人たちだ。「人を感動させる音楽」の土台には、常に空虚で滑稽なビジネスが横たわっている。その事実を抱きしめたまま肯定するかのように、七海たちは滑稽な姿のまま全力で歌う。そのさまに、わたしはこのアニメで初めて「感動」することができた。

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