【B4作品批評レポート#4】-ある日、盤と向かえば- B4 波島 諒

 


はじめに

「むしゃくしゃしてやった。はっきり言ってなんでもよかった。ただそこにあった。それだけです。」

門脇研ではB4春学期の課題として、何かの作品の批評をするというものが出ました。この課題は”今自分がハマっている「熱いもの」を批評する”というテーマなのですが、天邪鬼の僕は今熱くないものをこの課題を通じて熱くし、その熱量で同輩を超えてやろうということを考えました。

世の中のあらゆる面白くないものは、そのもの自体が面白くないのではなく、それを面白く見ることができない自分のおもんなさに起因します。
であるとするならば、もしかしたら今面白いと思っていないものを面白いと思うことができたら、それは僕そのものが面白くなっているのかもしれない。そんなわけのわからない理論を掲げてこの課題に取り組もうと首を回しました。

たださっそく大きな壁にぶつかります。多くの人がそうだと思いますが、なんでもいいと言われると逆に困ってしまう。例に漏れず僕も選択のパラドックスに悩まされ、むしゃくしゃした結果、ふと目についた将棋について批評することにしました。

将棋なんて小学生以来やっていない。ギリギリコマの動かし方は覚えているけど、本当にそれだけです。興味なんて一切ありません。でももう決めてしまった。決まってしまったのだから仕方ない。とりあえず鼻をほじりながらテレビを見ていた父を捕まえて盤を挟み向かい合います。


見るに耐えない攻防戦。互いに相手の駒台を気にすることもなく、普通はありえないような速さで進んでいきます。王、金、歩という最も単純な詰みで片付けの義務から逃れた僕は、こりゃダメだということで新たな作戦を考え始めます。


捻くれていても現代人。困ったのでとりあえずYouTubeで”将棋”と検索してみます。しかし、資本主義の歪みをみて撤退。”将棋 インタヴュー”と検索すると面白そうなインタヴュー作品が出てきました。今回はこの作品を連想ゲームのスタートに置き論を進めたいと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=KjFY32bFcpY&t=143s

インタヴューという形式から見えるもの


本インタヴューは藤井聡太氏の100勝を記念して作成されたものであり、固定されたビデオカメラによって撮影された映像と男性インタヴュアーとの質疑応答によって構成されています。定点であるが故、藤井先生の動きそのものを強調させる効果があり、割と体を動かしながら考える先生の特徴をうまく伝えることができていて、とてもよいと思いました。

ただ作品の節々においてインタヴュアー言葉遣いの汚さとやっつけ感が透けて見え、気になってしまったのがもったいなかったように思います。藤井先生が話の最初に盤を挟めば平等であるとおっしゃっていたのはおそらく将棋というものの根幹を成している思想だと思いますが、インタヴュアーという外部の人間がその領域に入るのであれば、意識的に対応してほしかった。インタヴューという非対称的な形式を将棋という向き合うことで対等に腹を割るという虚構の文脈を受け継ぎ、新たなインタヴューの形式を作り出すことができていたらよりよい作品になっていたのではないでしょうか。

インタヴューは強いトップダウン的な形式を受け継ぎながら、現場では個人が即座に対応する性質をも同時に併せ持つ作品であるので、その個人で変えられるである部分に対し、プライドをもって変えてほしかった。そのような意味では、まだまだインタヴューという作品の形式には可能性があるのではないかと思いました。


また、将棋というのはいい手を指し続けなければならないというある種狂気的な精神の先に求めるべき世界があります。その精神は一般社会に通底しているオンとオフを分けるという精神とは真逆であり、そのいい手を差し続けなければならないというある種の脅迫概念はそのまま人間性、ひいてはその人間の根源的な思考原理に影響します。棋士において、「最もよい」というのは存在しない。なぜなら常に「最もよい」ものを選択することそのものが将棋を指すということそのものだからです。そうであるにも関わらず、安易に「最も良かった○○はなんでしょうか」という、質問をしてしまうのは少し視聴者側に寄りすぎているのではないでしょうか。

インタヴュアーとは視聴者とインタヴュイーの間にいる人間であり、決してそのどちらにもよってはいけないのではない。そのような態度そのものがインタヴュアーをインタヴュアーたらしめ、インタヴューに作品性を与えることになるのではないかと思います。

形式から考える。


将棋というのは虚構であり、全て人間が決めたルールに従ってゲームが展開される以上、もとのルール(虚構)が現実に与える影響というのはとても大きいです。そして、そのルールや形式というのはまた、色々なものに影響を与え、与えられ出来上がっていったものなのかもしれません。

まずは、同種に分類されるであろうチェスとの比較によって、将棋の形式・性格を浮き上がらせることを目指します。例えば、将棋の駒は5角形であり、それを囲う面は長方形で平面的ですが、チェスのマスは正方形で駒は立体的です。また、将棋は局所的な攻防が連続することでゲームが進んでいきますが、チェスの盤面は将棋より狭く、ひとつひとつの駒の動ける範囲が広いため、結果として影響する範囲が広くなります。つまり、将棋に比べ全体論的なゲームであることがあげられます。さらにドローの提案も可能であり、盤面外の攻防も大きな見所となっています。また、将棋では取った駒を好きな位置に打ち込めるため、駒が盤上にあるよりも駒を取った状態の方が自由度が高く選択肢が増えていくのに対し、チェスではゲームが展開していくと徐々に駒が減っていき、それに従い選択肢も減っていきます。将棋は後半につれて激しくなりますが、チェスは静かになっていきます。そして、それは王将(キング)の役割にも大きな違いを発生させます。チェスは後半に連れてキングが攻撃に参加する割合が高くなる(実として機能する)のに対し、将棋の場合はほとんど攻撃することはありません(虚、象徴としての王)。この対比的に炙り出された将棋というものの性質を切り口に、日本建築の特徴を再解釈(捏造)してみたいと思います。

駒の形に関してですが、なぜ5角形なのかというと、それにはさまざまな説があり、解明はされていません。しかし、重要なのは形の由来ではなく、その形に強い方向性があるということです。つまり、将棋は縦と横の概念がとても重要なゲームであり、たまたま駒が縦長だったから盤のマス目も縦長になったという訳ではなく、駒の縦長は必然であり、従ってマス目の縦長も必然なのではないでしょうか。

また、5角形であるというのも、僕らは太い方から細い方に視線を動かす性質をうまく利用しているといえます。それはあらゆるものの先は細くなっており、(自然のあらゆるものは先が細く、さらにいえば先の細さとは有と無を繋ぐ連続性の象徴である)。それが、無意識のうちにプレーヤーの思考にも影響しているのではないのだろうか、と勘繰ってしまいます。そして、その意識は例えば軒先の垂木の小口のデザインを工夫することで、軒下によって内外を繋ぐ連続的な場所としての象徴を高めたり、構法的に必然性をもって現れる棟というものと、それを象徴とすることでできる芝棟や平面・妻面という面を非対称に扱おうとする文化に繋がっていったのではないでしょうか。そして、外部環境を受け入れながら非対称的な平面にしたいという欲求ももしかしたら将棋的思考とつながるところがあるのかもしれません。(流石に無理があるか)

またチェスが全体論的で、将棋が局所的な性格を持ち、事実はそれに反している(つまり、西洋は非大極的であり、還元主義的であるのに対し、東洋の全体主義的な事実と実際のゲームの性格は逆である)というのは興味深く、遊戯であるからこそ自然な世界観とは意図的に異なるように設定したかもしれないというのは実に腑に落ちます。であるとするならば、この事実はそのまま日本建築の持つ全体性という性格を強化する方向に働く。遊戯という非日常の世界が反転した日常の世界を投影しているという指摘はあながち間違いではないのではないだろうかと思うわけです。

虚構と建築

さらに、虚構と建築というテーマについてです。このテーマはあまりにも広すぎて、とてもここで全部を扱うことができるものではないと思うのですが、2つほどさわりだけ残しておこうと思います。

ひとつは、例えば近代家族のような制度的に構築された虚構であり、それを強化するための建築であるという役割を(自覚的でないにしろ)保有しているという性質です。これは自分の王という虚構を守り、相手の王という虚構を倒すためにさまざまな戦術が生み出されることによって、事後的に、より王という虚構そのものの価値が強化されるという将棋の図式に近いものがあります。だからこそ、建築を作る人間は建築が無意識的に強化しているであろう、前提の枠組みには自覚的でなければならない。そう思うわけです。


そしてもうひとつは日本固有の国民様式はなにか、というような議論の仕方によって生まれた「日本的なもの」という虚構です。すでに登場したさまざまな建物の共通項を探るのではなく、これから国民様式をつくろうというのは考え方によっては恐ろしく、そして、実際に僕らがその影響を多大に受けているというのはもっと恐ろしい。そしてその虚構の中に所謂日本的といわれる虚構(例えば奥性<僕の認識では全体の中心性の欠落を逆に場所性の存在によって補う、日本都市の構造>など)の虚構が入れ子状になり、僕らの概念を強化していますが、その二重の虚構をその虚構を受け入れた建築がまた強化し、延々と理論が強化されていくということに自覚的にななければならないのです。建築という実態の扱う虚構の変数の多さは、事実に比べてはるかに多い。だからこそ今設計している部分がどの虚構に影響を受け、また与えているのか、そしてどこを捏造しているのか。ということを考えながら設計しなければならないのです。

建築家の存在意義

最後のテーマとして、建築と将棋(建築家と棋士)の芸術的な役割について考えてみようと思います。そもそも建築家というのは必要なのでしょうか。それは所謂設計士と名乗ると建築家と名乗るものを対比して優劣をつけるのではなく、今一般的に建築家と言われる人たちが設計しているような建築をもしAIが建てられるようになってしまったらどうするのだろうか、ということです。この話題は(僕が知らないだけかもしれませんが)あまり建築界では議論されていないように思います。それはそもそも議論の俎上に上げるような話題ではないという論理的裏付けを伴った共通認識があるのか、まだ考える必要もないでしょうという無根拠の楽観的な思考なのかはわかりませんが、将棋という棋士そのものの存在価値が問われている将棋界の現状分析を踏まえ、建築にまで拡張していければと思います。

まず将棋界とAIの一連のやり取りについて電脳戦を中心に極簡単に復習をしたいと思います。

電王戦とは、将棋棋士とコンピュータ将棋ソフトウェアが対局する棋戦の催しである。ドワンゴが主催しており、2012年1月に第1回が開催され、一局勝負でコンピュータ将棋ソフト「モンクラーズ」が米長永世棋聖に勝利を収めた。翌2013年の第2回電脳戦5番勝負でもコンピュータ側が勝利、さらに翌年の2014年第3回電脳戦でも5番勝負でコンピュータ側が勝利している。2015年の第4回電脳戦は棋士の機転によりプロ棋士がコンピュータに勝利している。
https://www.weblio.jp/content/電王戦

そして2017年で終了になりますが、この電脳戦はシンギュラリティーが紛れもない現実の象徴となったわけです。

棋士たちは棋士の存在意義を強さから強さ+aに変えざるを得なくなりました。評価がある以上それを満たすような操作的手段は構築可能であり、その性質上人間は人工知能に必ず負けるようになっています。であるならばもう棋士には価値がないかと言われると決してそのようことはありません。その+aの一部分が芸術性を持った棋士及び将棋ということになるのではないでしょうか。プロの将棋の魅力のひとつに意図的な一手と無意識の一手が一致しない可能性があるということが挙げられると思います。その二重性こそが将棋の醍醐味であり、人間がプロとして将棋を指す意義を見出せる部分でもあるのです。

マルセル・デュシャンは、芸術作品を、企図と実現のギャップを芸術係数と呼び定義しました。その芸術係数の高さが鑑賞者としてその芸術に没頭できる指標であり、閃きが最良であることを検証するのが将棋を指すと定義するならば、先に述べたように将棋は芸術係数がとても高いものであるといえると思います。

そしてよりその芸術係数を高くするために(直感と指す手の隙間に鑑賞者が入り込めるようにするために)メディアもその写し方を変えていかなければならないのです。それが棋士の所謂人間性と言われる部分であり、鑑賞者が直感の出どころを想像できる余白を残すべく盤の外での出来事(例えば将棋飯など)にもよりスポットが当たるようになってきているわけなのではないでしょうか。そしてその象徴的な出来事が2013年の加藤一二三の1000敗達成が大きく報道されたという事実であり、それが加藤一二三をひふみんとして召喚した匿名の民意であり、昭和の価値観からしたら倒錯的な状況が堂々とメディアによって報道されていたという事実なのです。


それに対して建築はどうでしょうか。パソコンの性能が上がり、実現と企図が一致する(芸術係数が0に近い)合理的なものがどんどん取り入れられていきます。手書きだった図面はcadに置き換わり、3Dモデリングソフトの発達により、ついに図面というものを必要としない世界にまで来ています。図面とは<圧縮・保存・輸送>の装置であり、人類の大発明でありますが、その圧縮・解凍こそが実現と企図が不一致(芸術係数が高い)ものであり、人間が建築を設計する意義というものを作っていたのかもしれません。
もしかしたら我々は我々自身で建築家の存在しなくてもよい世界を作り出そうと必死になっているのではないだろうか。そう思ってしまうわけです。


僕には本当に全てAIが設計できる日が来るかどうかはわからないし、できたとしても設計が全て奪われるかどうかもわからない。けれど、その日を考えることは絶対に必要であると思います。そしてパソコンで引く線は自分ではなく、パソコンが引いている。もう既に線を引くという人間の存在価値を奪われているということに自覚的になり、その線の持ち主を取り戻すように意識的に一本一本の線を引かなければならない。そう思いました。

まとめ

将棋界では電脳戦での惨敗をひふみんというキャラクターによって埋め合わせ、藤井聡太という天才によって尊厳を取り戻しつつあります。しかし、そこには一時的に将棋界のボキャブラリーが大きく減った(界全体として滞った)時期があることを忘れてはいけません。建築も対岸の火事として眺めるのではなく、自分ごととして捉えていかなければならない。やるべきことは早い方がいい。そんなことを提出日ギリギリに書き、自分の怠惰を噛み締めながら筆をおこうと思います。ご精読ありがとうございました。

追伸 反省

作品批評ではなく、居酒屋の会話のようなただ連想できる感想を一貫性なく積み上げるだけの駄文になってしまいました。もう論文も書かなければならなくなるし、ただ長い文章をダラダラ書くというのはより価値がなくなっていくと思います。

選んだテーマに対してあまりにもボキャブラリーを持ち合わせていなかったこと。それを自覚しているにも関わらずひとつ次元をあげて、一般的な議論に持ち込むことができなかったこと。批評の構成として先細りになってしまったこと。目新しい、気づかれていなかった問題を発見するに至らなかったこと。どの切り口でみても求められているレベルには全く到達できていません。

これを消えない恥としてnoteに祀ることで糧とし、専門的な高等教育を学ぶものとしてそれに相応しい文章が書けるようになっていかなければならないと思います。普段のゼミで行われる広範囲の議論を多発的に拡張するアウトプットと、ある物事に対し徹底的に考える訓練をすること。良い文章をたくさん読むこと。そして、日常生活で不意に感じる「なぜ」を無かったことにしないこと。

せっかくレベルの高い共同体に所属することができているのだから、盗めるものは全て盗み、自分の力にしていきたいと思います。駄文でしたが、最後までお読みいただきましてありがとうございました。 B4 波島

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