フェミニストになりたい

フェミニストになりたい。しかし、これが案外難しい。

この数年でいくつかの本や論文を読んで突きつけられたのは、僕がいかに家父長制と性差別が内在する社会に無自覚に、かつそれを内面化しながら生きてきたかということだ。

家族や友人も同意してくれると思うが、僕はいわゆる「マッチョ」なタイプではない。「男らしい」や「男っぽい」という言葉を賛辞の意味でも、嘲笑の意味でも向けられたことはほとんどない。

だから、「僕はフェミニストです!」と名乗ってきたわけではないにせよ、セクシストの誹りを受けることはないだろうとたかを括って暮らしてきた。

ところが、である。フェミニズムの視点から、「男性性」として挙げられる特徴は僕にも見事に当てはまる。

子どもの時代を「男性」として過ごさざるを得なかったトランス女性が、男女二元論が蔓延る周囲に馴染むために「訓練して身につけた」という「足を広げた歩き方」を、僕は気付かぬうちに身につけていた。座り方、話し方、身振り手振りも含めて、僕は自分の身体を「男性」として求められる振る舞いに沿って動かしているようだ。

初めて彼女ができた高校時代から、デートの際の会計は基本的に僕の担当だった。別に奢るわけでもないのに。

親からのお小遣いと学業の合間にバイトで稼いだ程度のお金で、毎回2人分の出費は賄えない。だいたい半分くらいの金額を後からもらうので、単なる割り勘である。ただ、対外的には「スマートに会計をする彼氏」のように映ったかも知れない。

ある時、本を読んでいて、「僕が会計をしてきたのは、どうやら無意識に『男らしさ』パフォーマンスをしていたみたいだ」と気がついた。

割り勘なのに、会計の場では僕に支払いさせてくれるデート相手のサポートのおかげで、僕の男性性の演出は機能していたのだが、そのことには少しも思いが至ってなかった。

言ってみれば、「かっこつけていた」というだけの話なのだが、その背後にあるのは、「男が会計をするのが当たり前」とか、「女性に会計をさせるのはかっこ悪い」という考えである。

「会計をする(割り勘の場合は多めに出す)」というのは、気が付かない間に僕の中で当たり前のデートのルールになって、根を張っている。習慣化してしまった男らしさパフォーマンスを自覚してからもなお、男女2人で食事に行く際に、相手を会計に立たせることには気恥ずかしさを覚えてしまう。

会計に限らず、車道側を歩くとか、荷物を持つとか、ドアを開けるとか、「モテる行動」とされる類のものはほぼ例外なくやってきた。

恋愛関係においても、友人とのホモソーシャルな関係においても、僕はほとんど違和感なく過ごしてきた。

(少なくとも今のところ)シスジェンダーのヘテロセクシャルである僕は、自分の性について考える必要性を感じたことがなかったのだ。「男性」、「異性愛者」という二重の特権のぬるま湯に浸かり、漫然と生きてきた時間の中で、僕はしっかり「男」になっていた。

フェミニズムの本を読むと、そういう自分の「男性性」を糾弾されているような気になる時がある。暴力的で、性搾取的な「権力」を象徴する「男らしさ」に虐げられてきたマイノリティの人々が、それを批判するのはもっともだ。

職場で、学校で、道端で向けられる性的な視線への不快感。「男らしさ」と裏表で求められる従順な「女らしい」への抵抗。そもそも構造的に押し付けられた「マイノリティ」という立場。これらに対する怒りが、特権に無自覚に暮らしてきた僕(を含む男性たち)に向けられるのは、一部の隙間なく合理的だ。

論理的な反論がない以上、「男らしさ」が内包する醜悪さを認めて、男女二元論を解体する方に加勢したい。とは思うのだが、染みついた「らしさ」は簡単には落ちないのである。

もちろん、大方のフェミニストも「男らしい」とカテゴライズされるものすべてを削ぎ落とすことを求めているわけではない。

特定の行動や容姿が、どちらか一方の性別にのみ相応しく、もう一方には相応しくないと割り当てられていることが問題なのであり、そのジェンダー規範が概ね「男性」にとって有利に機能することが批判の対象である。

そのため、僕が個人として「男性らしい」とされる行動や容姿を好むこと、選択すること自体が直ちに否定されるわけではない。

でも、個人の領域にある問題と、社会の構造にある問題を明確に線引きすることは難しい。僕の行動や思考は、僕が育ってきた社会と分かちがたく結びついている。同時に、僕の行動は社会を構築する要素の一部でもある。

社会のなかで「男らしい」とされる行動を身につけた僕が、与えられた役割に沿って「男」として振る舞い続けることは、ジェンダー二元論に基づく男性性の特権の維持に加担していることになるだろう。

ヘテロセクシュアルなシス男性に求められていることは、要するに「特権を手放す」ことである。ただ、手放すことは思うよりも難しい。その多くは構造に埋め込まれているし、そもそも自分が当たり前に持っている特権は意識することが難しい。

しかし、ありがたいことに、僕には先人のフェミニストたちが書き記してきた「マジョリティの特権の告発」がある。

学ぶこと、考えること、手放すこと。

ヘテロセクシュアルのシス男性に合わせて作られた社会のなかで、ぬるま湯に浸かって生きてきたマジョリティの1人である僕が胸を張ってフェミニストを名乗れるのはまだ先のことだろう。

それでもやはり、僕はフェミニストになりたい。



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