わかった気になる

久しぶりに日本を出る。数日の旅行だ。目的も特にない気楽な旅。

「国際線には慣れているから」とたかを括っていたら、いくつか小さな失敗をした。数千円を余分に払う羽目になった以外は、おそらく取り返しがつく程度のことだ。

誰でも気軽にいけるような観光地を巡るだけなのだから、何とかなるだろう。

ただ、機内で急に不安になった。どうやら周囲の乗客のほとんどは目的地であるベトナムの人たちのようだ。日本語は録音のアナウンスがあるだけで、他には一切聞こえてこない。

どれだけ集中して耳を澄ましても、自分が理解できない言語が飛び交う。飛び立つ前から、異国にいるような気分がした。

楽観的なうえにめんどくさがりな性格。それに、「忙しい」という言い訳が重なった結果、僕はほとんど何も調べずに飛行機に乗った。

ホテルは手配してあるので、路頭に迷うことはないが、そこまでの行き方も、費用も、そもそも現地通貨すら持っていない。

飛び立つ直前の機内で、噂に聞いたタクシー配車アプリをインストールしようとしていたら、隣の席の青年に「ベトナムははじめてですか?」と日本語で声をかけられた。

日本で働いているという彼は、旧正月を家族と祝うために休暇をとって一時帰国するところだという。

流暢とは言えないまでも、コミュニケーションは取れる。少し話を聞く。

おすすめの食べ物を教えてもらったのは良かったが、期待のアプリはどうやら現地の電話番号がないと使えないらしい(※1)。

ホテルの場所までタクシーに乗る際の大まかな価格の目安を教えてもらう。乗る前に値段を確認して交渉するように、とのアドバイスもあった。タクシーはぼったくられるから注意しろ、という情報はネットで知っていたが、適正価格がわからなければ注意のしようがない。助かった。

ところで、LCCには機内サービスがない。水だけしか持っていなかったのでなにか頼もうかとメニューを開くと、ベトナムドンかUSドルの表記しかない。しまった。と思うが後の祭りである(※2)。

偶然にも、前日職場でもらった小さなパンが鞄に紛れていたので、なんとか空腹を満たす。準備不足とは恐ろしい。危うく飲まず食わずで数時間を過ごす羽目になりかねなかった。

順調な、とはどの角度から見ても言えない旅の始まりに不安の気持ちが強くなる。

翻って、ここ数年の自分の生活を考えた。留学を終えて帰国してから4年半近く日本を出ていない。脳みそのなかの無意識に使える領域だけで、理解できる言語に囲まれて生きている。

仕事柄、日本語を話せない人には毎日会うものの、そこでのやりとりは僕の生活の根本を左右するものではない。わからないのは「向こう」であって、「僕」ではないのだ。

なるべく丁寧に説明をしようとはするものの、目的の場所に辿り着けなくて困るのは僕自身ではないのだ。

親身になっているつもりだったが、「地図もあるし、なんとかなるでしょ」とも正直思っていた。

日本語も英語も話せず、ほとんど国外に出た経験もないような人が、日本の電車を使って移動し、駅から目的の場所まで歩いて向かう。その時の気持ちを自分に当てはめてイメージするのは難しい。

そもそも、聞こえてくる言葉のなかに、理解できる言語が一切ない状況を僕これまでほとんど体験したことがないように思う。どれだけの不安なのだろうか。

話ができる。文字が読める。さらには、スマホでいつでもネットに繋げるのだから、日本にいる限り僕が日常生活で本当に困ることは何もない。

久しぶりに日本の外に出て、しかも初めての国に行く。少しだけ、日本で僕が毎日会う人たちの気持ちになった気がした。

でも結局のところ、僕が飛行機のなかで感じた不安は一過性のものだ。

外国に行った時でさえ僕の旅は複雑なものではなかった。最低限の英語は話せたし、空港まで迎えがあることも多かった。何人かでまとまって移動することもあった。

もし今回の旅でタクシー運転手にぼったくられようと、数日経ったら笑い話にできるだろう。

万が一、何かトラブルが起こっても、十数万かけた旅行が台無しになるだけだ。日本に帰ればいつもの日常がまた続く。

「色々な違いはあるけれど、それでも不安な気持ちに思いを寄せるきっかけになった」と文章を書き始めたが、書いているうちに考えが変わってきた。

物価の違いからくる経済格差に物を言わせて、ほとんどなんでも解決できてしまう状況は、僕が日本で接する外国人の人の経験とは根本的に異なる。

ある程度恵まれた教育を受けて、一時的に遊びに行くだけの僕と、なんの準備もできないまま放り込まれた人の状況も違うだろう。

わかった気になったことを言葉にしていくうちに、何もわかっていなかったことだけがわかった。そういう話になってしまったけれど、それもそれとして書き留めておく。

わからないことばかりだ。

※1)実際は、ネット環境があればSIMカードがなくても使うことができた。

※2)後になって気がついたが、クレジットカードや他の通貨でも支払うことはできた。よくみて見ないで早とちりをしただけだった。

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