ホームで菓子パン食べながら泣くな

 うっすらとした希死念慮が、頭を過ぎるというよりは、頭上をフラフラとしている。
 何年も何年も続けるこの道の果ては、結局皆同じところに繋がっているのに。だからこそ、その道すがらを楽しむという人もいるけど、それでもその先の果てを見ると、なんだかその気も失せてしまう。道すがらを一緒に楽しみたい人はいっぱいいるけど、そこで自分が本当にやりたいことなんて何一つない。誰かと楽しむだけでもきっと立派なやりたいことの一つなのだけど、結局他人に何かを委ねてしまうことで、自分がなくなることが許せない。それでも、「自分が」やりたいことなどない。「成長」「進歩」「貢献」、どれも聞き飽きた言葉だけど、止まってはいけないようなこの道を、真正面から見ることができなくなる要因になるのは容易い。一歩でも出遅れれば、それだけで周りから白い目で見られるのかもしれないと思うと、何も考えずただ進むしかないのだけど、それでも進んだ先を見ることも怖くて、どうにかして止まれないものかと思う。
「なんのために」と言われると、なんのためでもないのが正解だし、結局自分が選んだ道が正解なのだけど、自分一人で道を決めるには、社会は広すぎる。
 やりたいことはなけれど、やれることはあって、でもそれはやっぱりやりたいことではなくて。やれることがあるだけ良いのだろうけど! たとえやれることをして、「貢献」して「進歩」と「成長」をしても、なんだか自分には何も残らなくて、そんな進歩なら本当はしないほうがいいのかもしれない、とか。器用さを持って、やれることをただやることはできるけど、考えることもできてしまう、覚えてしまっている私には、突っかかりが否定できない。本当はみんなそういう風に同じように生きているのかもしれないけど、それでもきっと私のように突っかかりに何かをしないと、と思う人もいるんだろう。やれることをやっているうちに、やりたいことが見えるのかもしれない、それでも今はどうにも心が折れそうで、頭上を何かが近づいて離れない。
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自分が「やれる」と勝手に勘違いしてるから、やれなかったときにひどく落ち込んだり、価値を感じなくなったりする。全部やれる人なんていないのだから、本来であれば構わないことなのだろうが、どうにもそれを自分が許さない。許さないし、進んだ先を見たくもないから、なんだかまた落ち込んだりする。この脳を早く取っ払って身体だけになれますように。
(でも私は考えることができて、文字にすることができる世界でよかったとも思うのだから、なんだかもう皮肉でしかないのです)
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セルフ交換日記をやる元気がない。

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