マルコ(1976年生まれ)
(「少年の主張」に聾学校代表で出た話)
なぜテーマに「将来の夢」を選んだのか、その理由は…多分、中学の頃の私は、将来の夢を描けないのを「耳が聞こえない」せいにしていた。
分かるかしら?
自分が、将来の夢をテーマに選んだ理由は、それを社会になげかけるときに、私は耳が聞こえないから、将来の夢は何?と問われても、答えられない考えられないことがある。
お医者さんになりたいと思っても、聞こえないから無理じゃん、というのが自分のなかにあった。
私はお医者さんになりたいと思っていて、それは本当は、動物のお医者さんになりたかったの。
漫画を読んでて、獣医になりたいと思った。
当時そうだったから、それが結びついた。
獣医っていいな、でも頭の中では、耳の聞こえない獣医っていないよねどこにも…と思っていた。それは分かっちゃうことだよね。
うんそれが、うん14歳、中2だったから、14歳だった。
そのことに関連して、私、幼稚部5歳のとき劇で演じたの。
「悪役、いい演技だったよ。将来は女優になってテレビに出られるんじゃない」と私に言ってきた人がいた。
そのとき、私は
「ずいぶんと持ち上げるね…聞こえない人がテレビに出られるわけないじゃないの」と内心思っていた。
当時私は5歳だった。つまり、耳が聞こえなくてもできるとは、はなから思っていない。
聞こえないから無理、無理なんだ、うん無理と思っていた。うんそう。
だから、それまで、夢とかあっても、自分は、耳が聞こえないだから…無理だな…と思っていて、でもその上で、
あ~獣医って素敵だな~いいな~と憧れるような感じだった。
自分は絶対になる!という強い気持ちをもって、その夢の実現のために頑張る、というところまではいかなかった。そんな感じだった。
先生に「発表者あなたに決まったからね、よろしくね」と言われたときに、
その時の自分にとって、聞こえる人たちに向けて発表する、それも声で発表する、となったときに
音声で発表することについて、恥ずかしい…という気持ちは、なかった、と思う。
自分の声が…。うんそう、発表者は1人、毎年先輩たちが、1人ずつ選ばれていた。
聾学校で1人、各中学校で1人ずつという感じ。
だから今年は、ああ私に来たんだ、と。
何を発表しようかと思ったときに、将来の夢にした、これを社会に投げかけたかったからだと思う。
私は、あなたたち聞こえる人たちとは違う、私は耳が聞こえないから夢見ることも簡単ではない、それでも私は努力していかなければならないんだと、というようなことを最後に言ったの。
(ほかの人の発表テーマは覚えている?)
覚えていない。
何を話しているのかわからないから覚えていないのか、興味がなかったのか笑。舞台の壁に、発表テーマが縦書きに書かれいる垂れ幕が順に並んでいたような。舞台の壁に、発表テーマが縦書きに書かれいる垂れ幕が順に並んでいたような。なんとか中学校の名前があったのは覚えているけど。でもそこに何が書かれていたのか全く覚えていない。
(それまでに発表した聾学校の生徒たちのテーマは?)
全く覚えていない。何をスピーチしていたのか、あれは素晴らしかったな、など話題にした記憶もない。
何を言っているのかわからなかったからだと思う。
先輩は口だけで話していて、ところどころはわかるけど、何を訴えたいのかはつかんでいなかったと思う。
私の下、後輩も引き続き出たのかそれすら覚えていない。
(発表練習の様子を見かけることはあったでしょう?)
なかった。発表練習は、教室で先生とマンツーマン。
ただ会場まで聾学校のみんなでバスで向かったんだけど、行く途中はおしゃべりもして、その時間のほうが楽しかったかな。
どこかにみんなで行く、そのときにおしゃべりする、そういう道中が楽しかった。
大会の発表をきちんと聞いて、こんな発表なんだなるほどと思ったり、すごいな、と感じたりはなかった。
(大会は一日がかり?)
お昼までじゃない?朝から行って、お昼までかな。お昼…。午後からかな。お昼食べた記憶はないから。午後から…わからない。
ご飯は…給食は…自分の学校に戻って食べたのかも。
(覚えていないことばかりなのに、印象に強く残っているんだね?)
とても心臓バクバクで。頭が真っ白になって、原稿の途中で、えー、なんだっけ、真っ白になった後、原稿に目を落として、ああそこだと思い出してほっとして話し続けたのは覚えている。
それが1つ。
2つ目は、自分がもやっとしたのは、たぶん、自分の思ったことを原稿に書いて、先生が、それはちょっと違うな、もっと見栄えのいい言葉に直されに直された、というのがある。
それは、何かというと「たくさんの困難が待ち受けている今の社会で」。
この言葉は先生が書き加えたような。
「たくさんの困難」はもともと私の頭にはなかった。
もとから「耳が聞こえない人には無理」なものと思っていた。
それでも自分は、無理と分かっていても努力していかなければならないんだな、という気持ち。
でも先生は、
「たくさんの困難が待ち受けている今の社会で」、この一文を入れることで
耳が聞こえない人が直面している現実を、先生は表したかったんだと思う。
(先生が強く膨らませたんだ?)
そうだね、そこを膨らませて強く表現された。先生は、強くそこを膨らませてたのかな。
その文章を読んで、ふーんなるほど…と思った。それは記憶に残っている。
(今、その経験をどう思う?)
そうねえ、なんだろう。価値ってなんだろうね…ということかな。
本当に、そこで発表することの価値。
つまり、生徒のためになって…いたのか…?それは違うかなと思う。
それはやはり、例えばこの内容を社会になげかけて、
それは自分自身でしっかり認識して、それでも挑戦するというよりは、
なんだろう、先生に操られていたような、感覚がある。
聾学校から1人選ばれるということ。それはすごいことだとは思わなかった。それまでに選ばれてきた先輩のことも、それがすごいこととは思っていなかった。聾学校のなかで1人ずつ出す必要があるからね、と思っていた。
だからそれに対して、自分が発奮することもなかった。
自分のなかでは、ああ私が選ばれたんだ、はい分かりました、という感じ。
ただ聞こえる人たちに向かって声で発表する、それは緊張するな、聞こえる人たちたくさんいるんだろうなと思っていた。
そう思うだけだった。
なんか、本当に、なんだろう、本当に、自分が頑張って発表して「みなさんはどう思いますか?」と、そういうところまで考えるようになったのは、ずっと後。
社会に出て、手話で会話するようになって、手話で生きるようになってから、考えるようになったことだと思う。
改めて思うと…声で発表して、聾の生徒のために情報保障、字幕を出すとか…ない。
あ、でも、紙、紙はあったような、今思えば紙あったかな。
発表する内容の紙があったような気がする。
たぶん先輩のときもあったかも。今思えば紙があった。
これは自分の発表。他の発表者みんなの原稿ではなくて、聾の発表だけ紙があったような…記憶。
聾の声が変で、みんなわからないと困るから聞き取れないから。
だから紙が配られた、んかなあと思う。
(聴者に対しての情報保障ってこと?)
そう、そうなるね。
声がうまいから私が選ばれたというわけではない。
同級生が私含めて4人いて、1人難聴の子がいた。うんそうなの。
だから発音の問題、…ではないね。私よりうまかったから彼女は。
なんだろう。。。「思考」だったのかな。
自分は先生にいろんなテーマをぶつけて、
ちゃんと向き合って、考えてください!という子だったから。
いろんなテーマで先生に議論をふっかけるような子だったから。
そんなふうに先生の注目を集めるのが痛快というのもあった。
そういうことも書いてみたりして…だからだったのかな。
分からないけど…。
書いた原稿を担任の先生が一生懸命添削して、入選できるように、
いい言葉をたくさん盛って、それを見たときに、
ちょっと多いな…と思って、少し、うーんあんまり多いもんだから
なんか、自分、ちょっと違うような、モヤモヤもあった。
赤をたくさん入れられて、多いから…
それを見て、うーん発表だから色をつける必要があるんだな…そうなんだなと自分に言い聞かせるような気持ちになった。
そんな記憶がある。
実際に発表が終わって、頭が真っ白になったからもう終わりだ、もう自分は入選はないなと思った。
担任の先生じゃなくて、もう一人の先生、A先生というんだけど
発表が終わった後に、
「優勝いけるんじゃないかと思っていたよ、うんでも今回本当によく頑張ったね」
と声をかけてくれた。
それを聞いた私の受け止め方は、私はさっき頭が真っ白になったから、そのことで私が落ち込んでないかと
落ち込まないようにと慰めてくれたんだなと私は好意的に受け取った。
憧れていて好きな先生だったから、私はうん好意的に受け取った。
勘違いしないで、私自身がこの大会で入選すると思っているわけないじゃないの、という気持ちも当然ある。
(他の発表者と自分の文章との比較はしなかった?)
他の人の書いた文章…原稿はない。
参加者に配られたのは私の発表原稿だけ。
だから比べようがない。
発表原稿がないことに対して、自分は「他の人の発表原稿を知りたい」と訴えるほどまでではなかった。
今思えば、もったいないというか、訴えなかったのは自分の性格からくるものなのか、ずっとそう育って… みんな、聾学校の他のみんなも「他の発表者はどんなこと書いたの?」とは聞いていなかった。
(去年、その前の年もそういうのはなかった?)
なかった。なかったね。ただぼーっと終わるのを待っていて…終わったら
やった終わったさあ帰ろう!と帰る感じだった。
たぶん寝ていたのかな?それもよくわからない、覚えていないのだけど。
ただ本当にもったいなかった時間だと思うけど。
心のなかで、聴こえる人に対して、聞こえる人たちが自分たちへ向ける視線に対して、負けてたまるか、ちゃんと見せてやらなければならないんだ、敵愾心じゃないんだけど…壁というかそういうのがあった。
中学部のとき。あなたたちと私たちは世界が違う、と。
だから、将来の夢ひとつとっても、
あなたたちは聞こえる、私は聞こえない、だから、色々…なんだろう、夢を持っていたとしても、…聞こえる人たちのようにできるわけではない!、それを言いたかった。
それがあったと思う。不満めいたものがあったと思う。
「どれだけ努力しなければならないのでしょうか」
これは自分の言葉だと思う。
聞こえる人たちが、お医者さんになりたいとか獣医になりたいとか、無邪気に言う。こちらは多大な努力をしなければならない、と発表する。
それはずっと言われ続けてきたからだと思う。
聞こえる人たちが努力をするというのなら、あなたたちはその何倍も何倍も努力をしなさいと言われてきたから。
そうなんだ、と受け止めていた。
耳が聞こえないから、聞こえる人以上に何倍も何倍も努力しなきゃいけないんだ、それを発表したかったんだと思う。
もし「情報保障」の概念を知っていれば、色々な事例を知っていれば、そんなことは言わなかったと思う。
言下に「無理」だと…。初めから無理だと、そう決めつけるような気持ちがあった。
(情報保障は聾学校の中にもなかった)
そうだね、なかったね。先生自身も知らなかった。
だから…ねぇ。このなかで私が一番言いたかったのは、「どれだけ努力しなければならないのでしょうか」、これだと思う。
一番言いたかったことだと思う。
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