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ポチ(1970年代生まれ)

生まれたときは、聴こえてたみたい。
1歳・・・2歳になる前かな、咳が出だして、気管支をやったのかな、なかなか良くならなかったの。だから病院に行って、熱もあったし、病院で注射を打ってもらったの。しばらくして元気になったんだけど、なんか様子がおかしかったみたい。たまたま、叔母が看護師で家に来ていて、私の様子をみて、これはおかしいと気づいたの。名前を呼んでも反応がないし、これはおかしいということで病院に行ったの。
それで耳が聴こえていないことが分かって。
紹介状をもらって、T市の、大学病院へ行って、調べてもらって、聴覚障害、とわかった。親はショックを受けたみたいね。うん、ショック。

その後、聾学校を紹介されて、3歳から聾学校に入った。
聾学校は、家から車で1時間半。遠方だということで寄宿舎に入りました。親も家業があったから。
3歳からずっと寄宿舎で生活してました。
入った当初は、親元から離れて寂しくて泣いてばかりだったけど、周りの人や先輩たちが優しくしてくれて、慣れて楽しかった。
それ(寄宿舎)が、たぶん、手話に触れて、手話と出会った環境なんだろうと思う。

母が言うには、私が最初に覚えた言葉が、あ、私途中で失聴したから、聴こえてて言葉を覚えだしたころに失聴。そういう意味で、手話じゃなくて、初めての言葉が声で出した言葉が、「わんわん」なんだって。
「わんわん」。家では犬を飼ってたから。
だから犬がそばにいて、わんわん、が初めての言葉。

だから母は嬉しくて、これからもっといろんな言葉を覚えていくんだろうなって楽しみにしてたときに、私が失聴したの。母はがっくりよね。
それで聾学校に入って、寄宿舎に入って、そこには周りには手話があって、楽しかった。幼稚部に入ると、口話訓練が厳しい。厳しく指導された。

それが辛かったからなのか、今でも強く頭に残っていることがあって。
私はポケットに色々入れていたの。使ったチリ紙とか。それが気になってポケットにずっと手を入れて触ったり確かめたりしてたの。
それを見て、先生は、口話訓練に集中してない、って怒って、ポケットのものをすべて出させた。
チリ紙とか色々出てきて、これは何なの?ととがめられて。ポケットの中身はすべて空にしておきなさいときつく言われて、はい分かりました…って言ったの。
みっちり厳しく口話訓練に集中することを求められた、かな…。
3年間…厳しかった、というより、厳しくて辛かったという記憶はあまりないの。ただ、厳しかったなあ、って振り返って思う。

小学校にあがって、その前の幼稚部が3年間で、そのまま聾学校小学部にあがったんだけど、小1の先生も、うん…なんだろうね、発音訓練が週1、いや週2,3であったの。
みんなで一緒の勉強が終わってみんな家に帰るけど自分ひとりだけ残る。
発音訓練をするの。それは私だけじゃなくてみんな。クラスのみんなで、1人ずつ順番に、居残りがある。
それがずっと続いた。小6まで、だったかなあ。
でも、厳しい、というのは…。
私大人になって周りから色々聞いたんだけど、他の聾学校ではキュードとかやってるけど、うちの学校はそれはやっていなかったな。発音だけ、だったね。

たまに授業中に、手話を使っちゃうことがあるんだけど、もちろん手話は禁止。手真似、ね。手真似はダメ、使っちゃ駄目、と言われてた。
手真似をしたらダメ。手話をすると長生きできないよ、すぐ死んじゃうよって言われてたの。
それを言ったのは、女性の、年配の先生だったんだけど。
手話、声を出さないまま手話をやると、長くは生きられない。
だから声出してね、って。
は?何言ってるの?って思って。
私たちは無視して手話を使い続けてたんだけど。あまりにもうるさいから、先生が居ないときには手話で話して先生が近くにきたら、しれっと、手話をそっとやめて口だけで話すようにした。でも口だけの会話って続かないのよね。
無理がある。だから、先生が居なくなったらすぐに手話に切り替えておしゃべりしてた。
そんなふうにごまかしたりしてそんな切り替えをしてたね。それはずっと。

聾学校にいたとき、中3でこれから卒業するというときに、中3で卒業したら高等部に行くんだけど、そういう卒業前の時期に、先生にこんなことを言われたの。
川本口話賞。先生から、あなたに授与するね、と言われたの。
なぜ?と理由を聞いたら、あなた発音が上手いからと。うーんなんかなあ、そういうことじゃないんだよなあって思ってた。
授与されることは嬉しいことなんだとは全く思わなかった。
私が?発音上手い?
そういうことは思っていなかった。
私の家族は、私以外聴こえるんだけど、もちろん私の発音はきれいじゃないんだけど、家族はその声に慣れてるから聞き取れる。でも、家族以外だと。

忘れられないことがあるんだけど、小3のとき、聾学校からバスで帰宅するときのこと。
バスで1時間半。途中でおばあさんが乗り込んできて、カバンをもっていたの。そして降りるときに、カバンを忘れたの。
あっ忘れてるって私は気づいた。でもおばあさんは気づかず、バスを降りて歩いて行ってしまった。運転手に声をかけたかったけど、自分の声に自信がないし、掛けられなくて。自分の声に自信がないし。声もかけられないし、すごく気持ちが苦しかった。そのままバスは自分が下車するところまで着いてしまった。
おばあさんは荷物忘れて大変だったろう、せっかく気づいたのに声をかけられなかった。
すごく胸が苦しくてそれがとても心残りで、帰宅した後、母に言ったの。
なんで私、耳聴こえないの?と。
母は泣き出した。「でも、気持ちは分かるけど、」と母は続けたの。

あなたは聴こえないだけじゃない。
手足も動く。
目が見えない人も、歩けない人も世の中にはいる。
その人達に比べたらあなたはまだマシなのよ!といわれた。
マシだから大丈夫!といわれて。

マシ?そうはいっても・・・と、私は完全には受け止められなかった。
疑問はあった。だって、盲、車いすの人にとっては、発音には障害がないよね。そこは聴覚障害とは違うし。
それでもあなたはマシと、母は言う。
私はマシなのかな?
車いすの人は自由に好きなところへ行けないし、盲人は見ることができないものがある。あなたはできる。だから耳が聴こえないほうがましなのよと言われた。うーんそういうものなのかな…。
とにかく、乗りこえて頑張っていくしかないのよ、と言われた。
私は、うんまあもういいやって気持ちになって。

うん、まあそのまま聾学校にいたんだけど、他の学年、先輩や後輩の様子を見聞きしたところでは、厳しい口話訓練、それで体罰もあった。
昔は、口話訓練での体罰多かったよね。
なんでこの発音できないの!?と、発音できなければ叩くとか。
私自身はそこまで厳しい訓練は受けたことなかった。受けたことはなかったんだけど…。うーん。たまたま担任の先生が甘かっただけなのか、何かあったのか、理由は分からないんだけど。

中学を卒業して、高校に入学して、忘れもしない入学式。
入学式は全部声だけで進むと思っていたの。
生徒会長が登壇してきて、手話で話し出した。びっくりした。
中学までは手話することは、隠さなければならないことだったから。手話で話したいけど、手話を知っているけど、禁止されているから発表会とかは全部口だけで話してた。手話なんて使ったことない。
なのに、高校に入って、手話で堂々と話しているのをみて、先生たちも手話で話しているし、衝撃で、今までの私の聾学校生活って何だったの?と思った。 あの時は、私は補聴器をしてた。だから、声も一緒にあったのはわかった。
それでも、手話をしていいんだ!とびっくりしたの。

それまでは、発表会運動会全部口だけだし、後輩の発表も何を言ってるかわからないし、文字の情報保障もない。
何を言ってるかわからないけど、先生はとにかく見なさい、という。
とりあえず見てみるけど、見ても分からないし、そのまま終わってしまう。
だから高校に入って、手話があって本当に驚いた。高校に入って、手話していいんだ!と驚いた。
私が思ったのは、義務教育じゃないからなんだということ。間違った考えなんだけど、当時の私はそう思った。
中学までは義務教育だから手話はしてはいけない。
高校からは義務教育じゃないから手話をしてもいいんだということ。
そういう勘違いをしてしまっていた。
でも、そこでとても安心できた、気持ちがあった。
友達とたくさん手話で話した。同級生の友達がたくさんいた。

高校入学までは、私は同級生より上級生や下級生と遊ぶのが多かったかな。
私は寄宿生だったから、通学生とはゆっくり話せないときもあった。でも高校ではみんな寄宿舎生活。朝から夜までずっと手話。授業も手話。先生も手話できるし、できない人もまあいるけど、ほとんど手話ができる。
とても楽しくてたまらなかった。

5月の連休、帰省したんだけど…。落ち着かない。
4月に高校に入って友達と充実した生活を送って、初めての夏休み、長期休暇でしょ、実家に帰れるから嬉しいと思ってたんだけど。帰って2,3日経ってみると、やはり友達いないし…早く夏休みが終わって学校に戻りたいと思った。それを母にぶつけたの。
ストレスのあまり、だと思うけど。それを母に言ったら、母は泣いてしまった。
高校に戻りたいなんて、帰ってきたばかりなのに、私はすごく寂しかったのにあなたはそんなこと言うのねと。
でも、でも私にとっては、高校の友達と手話で存分に会話できる環境があって、帰省してみれば深い会話はない。
話すのは、日常生活上のこと。雑談はあまりなかったかな。
たとえばお風呂に入りなさい、食べましょう、買い物に行こう、寝なさいとかそういうぐらいのこと。
会話の深さが違う。
夜遅くまで語り合うとかはない。

晩御飯の席でも、父がテレビ見るのが好きだからテレビを見ながら食べる習慣があるんだけど、家族皆がテレビを見るし、テレビも字幕がないから何をいってるかわからないし。毎日毎日、早く、聾学校に戻りたいと思ってた。
当時は、私もストレスが溜まってた。母は、まだ夏休みが始まったばかりなのに…!というの。
はっきり覚えている。そういうのが3年間続いた。

私の家には親戚が集まる。私の家にはおばあちゃんがいたから。親戚は私の家に集まる。いとことか。そうなると声だけの会話になる。
小さいときは、何も考えず遊びまわっていられたけど、大きくなるとそうもいかなくなる。かくれんぼとかもうしないし。
何を話しているかわからない。
会話に入れない。
あいまいに笑って作り笑い、分かってるふり。
それをずっとやるのは疲れる。それが嫌でたまらなくて。
聾の、聾のみんながいる場所がほっと安らげる場所。
そこへ帰りたい。その気持ちが強かった。

そんな3年間が過ぎ、卒業したら地元に戻って就職することを考えてる人もいた。あるいは、B市で働きたいと考えている人もいた。
私は、地元に戻って働くか。かなり田舎。近くに大きめの街はあるけど、地元は何もない。聾者は、いることはいるけど、別の街へ働きに出てる。
うちの町には居ない。だから卒業後地元に帰るかというのはとても考えられなかった。

専攻科に入ることにして、将来を考えたときに、あっ本当は私は理容の仕事をしたかったの。
中3のときに、母は(高校は)理容科じゃなくて普通科に行っておきなさい、って。普通科?私は理容科のほうに行きたい、理容の仕事をしたいのに。将来の夢として、理美容師を考えてたから。
寄宿舎にいたときに、下級生の髪をよく結ってあげていた。それで理容の仕事っていいなと思ってた。

でも母は、まず勉強をしたほうがいい、普通科がいいよと言ったの。
私は、でも普通科に行ってもその後何をしたいかわからない、と言ったんだけど、何をするかは後で決めればいい、まず普通科に入っておくといいよと言われて。普通科か、うん受け入れた。
自分で決めたんじゃなくて、親や先生に言われて、そのまま仕方なく普通科に入った感じ。
何をするかは後で決めればいいと言われたけど、やはり普通科卒業後何をするかは何も思いつかない。だから専攻科に入った。歯科技工科に入った。

専攻科にはデザイン科もあるから、それがいいなと思ってたの。興味があった。
というのも、高校3年生のときに、部活引退して、時間ができた。
6,7月夏休みに入る前から、その空いた時間を活用したいと思い、時間を持て余してしまって。それに、将来どうしようかという悩みもあったし。何か将来に役立つことをやっておきたいという気持ちもあった。

ステンドグラス、P市が有名なのよね。
先生にお話しして、放課後、P市に通わせてもらった。P市には、ガラス工芸に関する講座みたいなのがあって、そこに半年くらい行ってみた。
とても楽しかったし、先生からはセンスがあるねって褒められて、仕事にしてみたらどうか?とも言われたの。それもいいなあと思って、母に言ったら、すぐさま反対。
そんな甘いものじゃない、給料も安いし、会社勤めのほうがいいよ、という。 駄目。ダメっていう。あれもダメ、これもダメと。
何かをやりたいといっても、ダメといわれる。もううんざりしてた。

専攻科、歯科技工科に入った。手で何かを作るという面では、ガラス工芸と共通する部分もあるし、やってみようかなと思って入学したの。

入って1年くらい経った頃。
何かを作るということは楽しかったんだけど…卒業後自分はどうするんだろうと考えていた。
同じ科を出た仲の良い先輩がいるんだけど、仕事帰りとか休みの日に時々会ってみると、いつも疲れてた顔をしていた。
残業ばかりで、お給料はいいんだけどあまり勧められないかなと言われた。
そういう話を聞いて、不安になった。
あのときは、ブラック業界なんていわれていて。残業に次ぐ残業。
作業が終わって帰ろうとすると、呼び止められて納期が急ぎの仕事を追加で頼まれるということもあったみたい。
そういう話を聞くと不安になってくる。

あの頃が、初めて自分の人生、将来について考え始めたとき。それが初めてだった。
本当に高校3年間自分何をしてたんだろう苦笑。高校の3年間自分は何も考えてなかった。
専攻科に入って1年が過ぎる少し前の頃のことだった。自分を振り返りはじめた。専攻科でこのままやっていけるのか。自信がない。自信喪失してしまって。ここを出て、東京とか都会に出ていくことを考えた。
T県の職業訓練系の学校とか。そのときは、まだ専攻科はやめてなかった。まだ籍は置いていて、それでそこの学校に出願した。ちょうど、2次募集が出ていて、出願したんだけど、落ちてしまって。

専攻科の先生に色々相談した。残りの学生生活を続ける自信がないと。
先生は、専攻科の1年次の終わりで休学したらどうかと。
そこで専攻科は、年度末まで通って、そこで休学。
1年間休んで、自分を振り返るというか、本当にやりたいことは何なのか。それを考えてみようと思ったの。

いったん実家に帰って、家業を手伝った。
一週間のうち、5日間は働いて、土日は欠かさずJ市に通い詰めてた。
T子とかK美とか、仲の良い友達が何人かいたから。手話で話すこと、それが私には不可欠だった。それがないと私は持たなくて。実家に帰って、聴こえる人に囲まれて、手話もないし、息苦しい。
土日にいつもの仲間たちと会って遊んで、泊めてもらって、家に帰ってまた働く。そういう1年間だった。
そういう1年間の間に、T県の職業訓練系の学校の来年度の生徒募集が出たから、出願してみた。結果は合格。今の専攻科は休学してたからそのまま退学手続きをした。

そして、そのT県の学校に入学したの。いろんな聾者と出会って、手話で語り合って。夏休み冬休み、長い休みのときは帰省するんだけどそれが憂鬱で。帰省したら高校のときと同じように、2日目にはもう帰りたくてたまらなくなるんだろうなと思っていたから。やっぱりそのとおりになった。
帰りたい。
自分の生まれた場所が本来の「帰る」ところなのに、私は反対なの、聴こえる人に囲まれた世界じゃない、聾の世界へ「帰りたい」気持ちが強かった。
手話の世界がいい。
聴こえる人ばかりの場所は…うーん。別に、親が嫌いなわけじゃないの。
そこまではない。でも、私だけ聴こえない。
親に「私だけが聴こえない」って言ったことはないんだけど…。それは言ったことはないんだけどね…。
うーん。手話で語り合う空間、それが私はやはり楽しい。

高校のときは、帰省しては、聴こえる家族のなかで過ごして、ああもういやだと思う。そして聾の世界に「帰って」、次の長期休暇で帰省する。その繰り返し。T県の学校でも同じ。
実家に帰っては、ああ今日も手話使ってなかったな、今日手話使いたかったな。ってことをしょっちゅう考えてた。
昨日は聾者に2人会えたな、2人って少ないなあ、イベントがあれば、今日は 10人に会えた、嬉しい!昨日は10人、一昨日は2人、とか会った聾者の数を数えては、会う聾者の数が日々増えていくといいのになあと思っていた。そういうことをよく考えてた。
全く聾者に会わないと、心がイライラしてしまう、いや、イライラではないか、手話に飢えてる気持ち、手話を使いたくてたまらなくなる気持ち。「帰りたい」気持ちになる。

だからなのか母は言うの、まだ小さいあなたを寄宿舎へやってしまったから、と。私は三人兄弟の末っ子なの。一番上もその次も、地元に帰っている。私だけが地元を離れた。地元を離れてあちこち転々としてるわけ。
母は言う、3歳で聾学校の寄宿舎に入れてしまった、だからあなたは今家によりつかないんだ、寄宿舎に入れたことを後悔していると。
耳が聴こえない子じゃなくて、障害のない子であればよかったのに、と言うの。
そんなこと言わないで、っていうけど、今でも時々思い出しては泣くの。

私は、聾という人生を得られてむしろ感謝してるよ、って親にも言うんだけど親は泣くだけで…。親はまだひきずってるんだね。後悔の気持ち。
ちゃんとあなたを見てれば、風邪を引いて熱を出さなければ、あなたは聴こえなくなることはなかったのに。あなたは3人目の子だから、大丈夫だろうと思ってしまった、1人目は初めての子だからきちんと気を配っていて育てていたはずなのに、3人目は慣れもあってちゃんと見てあげられなかった、だから耳が聴こえなくなってしまったんだ、そういう悔いを今でもこぼす。

もう言わないで、もういいよって私は言うんだけど、ね…。今も言うのよ。
20歳で親元を離れて。最初に親元から離れたのは3歳だったけど。親のもとを離れて良かった、というわけではないんだけど。
自分は聾でいい、良かったと思ってるの。
ただ家族のなかで自分1人だけ聴こえない状況は、寂しいこと。昔は、ビデオチャットもなかったから。帰りたい帰りたいって気持ちも一層強くなったのかな。
聴こえる人に囲まれてるの辛いし、話も分からないし「帰りたく」なる。親戚が集まっていても孤独。通訳っていうか、場が盛り上がってるときに、何を話しているのかは教えてくれるけど、教えてくれるのはいいんだけど、一緒に同じタイミングでは笑うってことはあまりない。どっと場が沸いた後に、理由を教えてもらう。それが、やっぱり嫌で。

高等部に入って、手話があって、先生も手話できて、手話の空間がある。驚いた。たまたま保護者の集まりがあって、聴こえるのに手話ができる親がいた。 聴こえるのに手話できるの!?と思った。
聴こえない娘のために、手話を覚えたという。うらやましいと思った。
それに引き換えうちの親は使わない。手話覚えないの?と聞いたこともあるんだけど。
1,2,3,とか数字。数字は分かる。いくつか数字の手話はわかるんだけど。それだけ。それ以外は声。「朝7時に起きて」とか「朝5時」もできる。 けど、他はまるっきりだね。
だから、手話のできる親がうらやましい、と、思ってた。うん。

T県の学校に入って、いろんな聾者と会って、就職、そして結婚して。子供が生まれて、2人。1人目は耳が聴こえなかった。R聾学校に入ったんだけど…私がいた当時と何も変わっていない。
手話は禁止。口話教育。私自身が受けた教育から20年何も変わってない。
変わってないのよ。
まったく進歩がないんだなと思った。人工内耳は増えた。それはわかる。
私は、娘には人工内耳はしなかったけど。
口話主義なのは、やむなしなのかなと我慢して、乳幼児教室からその聾学校に通った。私は幼稚部3年間通っていたときに、私の母が時々きてくれたの。私は寄宿舎だったんだけど、月曜日来て、一緒に来て母だけ帰ってまた土曜日に迎えにきて、一緒に過ごして、家へ一緒に帰るという。

自分に娘が生まれて、幼稚部3年間は、母の付き添いが必須だった。
付き添っていて、モヤモヤしてた。というのは、口話もそうだし、絵日記も親が絵を書いて、それを発表する。
その発表が、手話禁止。声だけで発表しなければならない。
娘は手話できるのに。私は親子関係のコミュニケーションが曖昧なのが嫌だったから、親子関係には手話が不可欠だと思ってたから、自分の娘には手話で語りかけて手話で育てたの。
でも娘が通った聾学校は手話禁止。声で話しなさいと言われる。それが抵抗があった。それが小1、2、いや小1まで続いた。昔と変わらない教育。そんなときに二人目を妊娠して。

2人目が生まれて、2人目は聴こえた。
1人目は聾、2人目は聴こえる。でも聴こえてても関係ない、2人目も手話で育てた。
2人目は音声より先に手話を覚えたのよ。2番目の子は聴こえるんだけど。音声より先に手話を覚えた。手話ももちろんできるけど手話を覚えてから音声での言葉を覚えた。そんな娘の様子をみて気づいたことがある。
手話のあとに音声で覚えることになったから、音声での単語と自分が知っている概念が結びついていないときがあって。
「白」という言葉があるとする。もちろん娘は「白」はわかる。
でも「シロ」って何?と聞いてくるの。保育園で、シロの話になったらしくて。
えっシロはこういうものの色だよ、といっていくつか指さしたの。
そしたら娘は、なんだシロってそういうことだったのかって概念を理解した。 次女は、手話での概念に、後から音声の単語を結びつける感じで、言葉を覚えていった。
その様子を見て、長女も手話で育てるべき、育てていこうだと改めて思ったの。同じ聾学校の保護者たちとも話して、手話で育てようねという同じ考えのお母さんたちと出会ったの。
手話で教育を受けさせてほしいという要望書を学校に出したけど、聞き入れてもらえなかった。

聾学校では、口話だけの教育だったけど、聾学校の中に手話のできる先生はいたの。
でもその先生は、ほとんど…重複の担当で、重複の子どもには手話で接してた。その先生と話すのはとても楽しかった。言ってることがわかるから。
でも、他の先生は…手話のできない先生が多かったな。

小学校5,6年だったかな。
高学年のときに、突然母に言われたの。あなた人工内耳、どう?って。
人工内耳を知らなかったから、聞いてみたら、機械を耳のところに埋め込んで聴力を、というような説明を受けて。どういうこと?と思っていたら、自分が幼稚部のときに厳しく口話指導を受けたその先生のご主人が、何かアメリカにいって研究をしてたそうで、それが人工内耳の研究で、帰国して日本でも装用者を増やそうって取り組んでたの。ちょうど人工内耳が広く知られだした頃だった。あなたはわりと話せるから、どうかと勧められたの。
話せるというか、自分は発音はヘタなんだけど、確かに、同級生の中ではきれいなほうだったと思う。だから、もったいないから、人工内耳どう?つけたらもっと発音がきれいになるよ、と母は勧められたらしいの。その母が私に言ってきて。
機械を埋め込む手術なんて怖い、私はそんなの要らない、補聴器があるからそれでいい、と言ったの。
母は、しぶしぶ、分かった、って。聾学校にいたときは、補聴器をつけなければいけなかったからつけてたんだけれど、休みの日にはつけていなかった。

母が私を呼ぶときに、声を出しても私がわからないときに、いつも私は犬とか猫と一緒に過ごしてたの、犬を撫でてたのに、その犬が突然駆け出していく。犬の行った方をみて、母が私を呼んでいることに気づく。
犬を使って私を呼ぶのよ。そうやって呼ばれることが多かった。
父も同じ。私が犬と遊んでるときに、突然犬が向こうへ駆け出していく。
どうしたの?と思って、犬の方向を見ると、父が居て、ああ自分が呼ばれたことに気づくというね。あんた何度も呼んでも聴こえないじゃない、だから犬を使って呼んだのよ、っていう。犬の名前がポチっていうんだけど、向こうからポチ!って呼んでたのね。
私が気づくと、やっとこっちを向いてくれた!っていうの。
私は何も言えないよね。犬を使って私を呼ぶということ。呼ばれて、何か話をして。それだけなんだけどね。

父は、手話は、手話はできないんだけど、父は身振り、身振りを多く使ってくれたかな。
母は、絶対に身振りもしない人。口話で押し通してくる。
分かる?と聞かれて、私は分からないというと、もう一度!よーく口を見なさい、って言ってくる。分かりました…といって口を見るの。
見て、うん分かりましたって返して。そういうやりとりだったな。

話は変わるんだけど、私、2人子がいて、1人目は耳が聴こえない子。
その子を手話で育ててるときに、時々母が来たの。
母が、長女を見て、やっぱり違う、というの。私が子供だった頃の様子と娘の様子を比べてみて、やはり違う、考えてること、話すことも違うし、この子は頭がいいわ~って言うの。
それ見たことか、と私は思ったね。私は、手話無しで口だけで話されても分からない、曖昧な理解で、学校で受けた授業の中身も果たして分かっていたかどうか。
曖昧な理解のまま育ったから。娘は、分かることが当たり前で育ったから、母は娘と私との差を本当に感じたみたい。
(娘は)頭がいい子ねえという母に対して、手話で育てるってこういうことなのよ!って話したの。母は、そういうもんかねえ、って。
母は、今完全に納得したわけではないけど、手話は大事なものなんだなあって少しずつ分かってきたみたい。やっとわかってきたみたい。
孫が耳が聴こえないということで、分かったことがある感じ。

だから余計に、私が受けた聾教育って何だったの?
手話がないってどういうことって思った。

高校の同級生で集まる機会があって、各地の聾学校の口話教育の状況を聞く機会があった。
発音訓練で頬をぶたれたとか、きれいに話せるようになるまで廊下に立たされたとか。話せるようになるまで帰れないとか。
そういう話を聞いて、自分の聾学校は、そこまではなかったけど…。一つ、二つ下の学年は大変厳しかったみたいだけど。私の学年は、たまたまなのかな?私の担任の先生が、そんなに厳しくはしなかったのかな。でも、一週間に1 回、自分だけ残って、晩御飯の時間まで、5時半まで2時間くらい、発音訓練をしてた。それは長い時間だったね。一週間に1回、我慢の日だった。でも…、うん、今思うのは、聾学校にいたこと、自分は聾学校に行って良かった。
寄宿舎にいて、先輩もたくさんいたし、上級生下級生とたくさんおしゃべりして、先生がいないすきをみて、手話でおしゃべりしてた。色々手話で話し合える環境があった。とても楽しかった。
J聾学校だけの手話表現があるのよ。他の聾学校には通じない手話。たとえば【手話表現1】とか、【手話表現2】とか。
あっでも【手話表現2】は、うちの学校だけかと思ってたら、他の学校でも使われていたみたいだね。当時は、うちの聾学校だけの手話と思っていた。でも【手話表現1】はうちの聾学校だけ!
たとえば、気持ちが落ち込んだときに使う。それは、J聾学校だけの手話かな。 今、今そういう手話を自分は使わないんだけど。使わなくなったね。
自然と使わなくなった。

私の同級生は人数少なかったんだけど、一つ下は多かった。
T子、T子は兄弟も聾だったし、よく家に遊びに行ったなあ。
T子の友達のL美も、弟が聾だった。親は聴こえるんだけど。
その子は家が聾学校に近いからそこが自然にたまり場になってた。
私も学校が終わって、まっすぐ家に帰るんじゃなくて、後輩の家に泊まってから実家に帰ることもよくあった。

うちの学校には、デフファミリーは…いなかった。他の聾学校には何人かいたと聞いたけど。うちの学校にはいなかったなあ。
でも、聾の大人、には会わなかったなあ。
でも高等聾学校にいって、同級生の何人かはデフファミリーで。
そうか、結婚して子ども生めるんだって思ったり。デフファミリーっているんだなあと初めて思ったの。
聾の大人に近いといえば、歳の離れた聾兄弟とかはあったけど。T子の姉とか。でも、聾の大人には会ったことがなかったの。高等聾学校に入って、だから先生たち(大人)が授業で手話を使うことにもびっくりしたし、デフファミリーの同級生も何人かいて、親子の会話が手話なんだ、聾のお父さんってあんな感じなんだ、とも思った。

中3のとき、卒業するときに、いや、中1のときの話になるんだけど、当時私反抗期で。先生の言ってることがわからないし、もう反抗してた。
そのときの中1の担任が、新任で来た人で。大学卒業したばかりの新卒。普通は新卒で担任は持たないよね。ありえない。普通は、新卒で2,3年経ってから担任をもつのが普通だと思うんだけど。でもその先生はいきなり担任になってしまった。そういう事情は、中1だった私にはわからないから。あの先生何よ、話してることさっぱりわからないし、オタオタしてるし、なんでこの人が私たちの担任なのよって思ってた。
自分は、当時反抗期もあったから、何言ってるのかわからないよ!って先生をいじってばかりいたの。中1のときだった。いじって、からかってた。
先生もぶちぎれて、その先生は顔を真っ赤にして、わめきちらした。
でも私たちには何を言ってるかわからないから(笑)。
何言ってるのかしらねーってそれもまた笑いのネタにしていたの。今思えば、ひどいことしたなって思ってるんだけど。

中3になって、卒業間近になって、ああ悪いことしたなって思って、同級生たちと謝りに行った。その節は申し訳ありませんでした、と。卒業する前に、謝りに行ったの。先生も、そんなことないよ、楽しかったよ、なんて言ってくれて。その先生は今は、P聾学校にいるらしい。前に、ちらっと風のたよりに聞いたことがある。今もう60近いんだけど、P聾学校にいるらしいんだよね。

うんあの時は、「手話で学びたい」そういうことを考えなかった。まず思いもしなかった。
聾学校にいたときは、手話はダメなもの、タブーだった。
そういうイメージが自分の中で強くて、だから高等聾学校に行ったときびっくりした。
手話で話す空間があったから、えっ手話使っていいの!?と思った。
うん。うん。
当然運動会とか学芸会とか、先生が話していることは、口元をずっと見なきゃいけないわけでしょう。苦しかった。
みんなよく頑張ったなあって思う。
自分も、自分自身よく頑張ったなあって思ってる。
校長先生の長い話を、ひたすら口を読む。

娘が聾学校に入って、校長の話には手話通訳がつくし。見てて分かるから、分かることが気持ちいいし、自分の時とは違う、と思った。
発表会も情報保障がある。卒業式も入学式も違う。
自分の聾学校時代って何だったんだろう。
手話はダメ、というイメージがあまりにも強くしみついていたから、これは仕方ないんだと受け止めていた。

T県に来て、いろんな聾者と出会って、いろんな聾者がいるんだって分かったし、自分も聾の子が生まれて、東京には、手話で教える学校もあるし、その設立までの運動も大変だったろうしすごいなと思ってた。
昔の聾学校は、口話主義だったからね‥。手話禁止。
だからそれを変えたいという運動があちこちで起きているんだって思った。

自分の聾学校時代のときはよくわからなかったけど、やはり我が子を見てるとよくわかる。
やっぱり手話は大事なものなんだって分かった。
長女は、今はもう成人したんだけど、聾の誇りを持ってる。

自分が中3のときは、自分が聾なのか聴覚障害者なのか、曖昧で、「耳の障害者」、自分は聴覚障害者だ、という意識が自己認識の大部分だった。
聴者に囲まれてて、聴こえないのは自分ひとりだけだったから、聴覚障害者って意識になったのかなと思う。
娘を見てると、自分とはやはり違う、と感じる。
アイデンティティも大事なんだなって娘を見て感じた。

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