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違いにこだわる特性、その奥にある痛みとは?


人と同じが嫌!!

自分は、いつからか人と違うことを志向し、
人と同じであることに嫌悪し、
人と違うことを求める、という性格になっていた。

  • 「こんなことやってたら、他と変わらないじゃん」

  • 「既に人がやったことをやるのは面白くないじゃん」

そうやって、他者と同じことを拒否し、違うことを求める。

動物占いで、孤高の狼であることを知ると

「俺は群れないし、人と違うことを嗜好する、ドンピシャだ!」

と喜ぶ。

しかし、実はこの性格は、
生まれつきの性格ではない、痛みを守るために作られた武装だった…

子供の頃の犯罪の記憶

一番古い記憶は、幼稚園の時。
みんなでアサガオの種を鉢に植えた。

種を蒔き、水をやり、
芽が出るのを楽しみにしていたのに、
なぜか自分の鉢だけ芽が出なかった。

当時の自分は何をしたかというと、
なんと友達のアサガオの芽をすべて抜いてしまった

子供心に「誰にも見つかってない」と思っていた。
しかし、なぜか先生に見つかった。
当然、行為について怒られた。

この事件のことは、大人になってもずっと覚えていた。

といっても

「完全犯罪したつもりが、すぐにバレちゃったんだよね〜」

という笑い話としてだ。

行動の奥にある痛み

自分はなぜ、そんな行動をしたのか、
考えたことも感じたこともなかった。

よくよく当時の状況を思い出して感じてみた。

当時の小さな自分にとって、
自分のアサガオだけ芽が出なかったという事実をイメージしてみる。

「なんで、ぼくのアサガオだけ芽がでてないの?」

この事実は、自分にとって大変なショックであり、悲しみだ。

そして、友達のアサガオをすべて抜いてしまったという行動、
これはどういう意味があったかを感じてみる。

「自分が出なかったから、皆も同じ目に合わせてやる」

そんな八つ当たりの心境だったのだろうか?

正直な所、当時の記憶は自分にはない。
今あらためて感じ直してみて出てきたのは、
自分だけ違う・皆と同じでない嘆きだった。

皆のアサガオを抜いてしまえば、自分も皆と同じになれる。
そういう思いで、件の行動をしたようだ。

しかし、そんなことは先生にはわかるはずもなく、
ただ行為に対しての叱責を受けた。

事象だけ見ていれば、当然のことだ。
自分自身も怒られて当然だと思った。
「あー、バレちゃったなぁ〜。見つかったら怒られるのは仕方ないなぁ」
と済ませていた。

本当に求めていたこと

しかし、今になって気づいたのは、
子供の自分は、この嘆きを誰かに寄り添ってほしかったということ。

自分だけ芽が出ない悲しみを、誰かにわかってほしかった
一人だけ芽が出てない自分は、皆と一緒がよかった。

でも、当時の自分はその感情を伝えることはできなかった。
皆と一緒がいいというニーズも伝えることができなかった。

だから、自分はアサガオの芽をすべて引っこ抜いた。
皆と同じになるために。

自分だけ違う悲しみ

もう1つ思い出したのは、小学校6年生のときの思い出。

子供の頃は身体が大きく、小学校6年生の時点で167cmもあった。
体格差がありすぎて、友達とプロレスごっこで遊んでいて、
相手を怪我させたこともある。

身体が大きいので、当然変声期も早く、
小学校6年生の時に、声変わりした。

その時の自分は、声が変わったことがショックで泣いてしまった。
当時の担任の先生に慰められた事を覚えている。

身体は大きいけど、そんなことで泣いてしまう自分。
なんで泣いてしまったのかは覚えていない。
感じ直してあったのは自分だけ違うショックと悲しみだった。

自分だけ芽がでなかったアサガオの時は、
他の芽を抜いて同じになろうとした。
でも声変わりは何かをして同じになることはできなかった。

中学生になり、高校生になり、大人になった。
小学生の時の巨人も、身長の伸びが鈍化し、標準的な高さで止まった。

小学校の頃の同級生には
「かけちゃん、小さくなったね」と言われたこともある。

一人だけ違うからの脱却、
本当なら喜ばしいことのはずだが、
すでにその頃の自分は、武装装備中だった。

新たな武装は「違うことはいいこと」

人と違うことに驚き、悲しんできた自分にとって。
「自分だけ違う」という痛みは耐え難いものだった。

そして、いつしか「違うことはいいことだ
という意味づけを無意識にするようになった。
これが自分の冒頭に紹介した性格が生まれた仮説だ。

先の同級生に「小さくなったね」と言われたことは、
それはそれで自分にとってショックだった。
それは新しい武装を装備していたからだった。

成長するにしたがって志向が変わってきた。
人と違うことを自ら嗜好するようになった。
目立つこともだんだん気にしなくなった。

人と同じことを、嫌悪し拒絶するようになった。
他の人と同じというだけで、嫌になった。
世間で流行っていることに、興味を持たなくなった。

流行に背を向けて、我道を行く。
皆と同じがとにかく嫌だ。
「変わってるね」は褒め言葉。

同質化を拒絶し、差異化にフォーカスし、分離してきた。

この特性は人生の上で役に立ってきた部分でもある。

常に新しい変化を志向する
新しいことへの挑戦に躊躇しない
多数派の圧力に負けずに前に進む

しかし、50年生きて初めて気づいた。
本当はこの特性は痛みの回避行動だったのだ。

囚われから出て気づいた真実

「自分は人とは違う」という信念に囚われきた自分は、
大事なことを忘れていた。
それは、「人はみんな違う」「人はみんな同じ」という当たり前のことだ。

みんな違って、みんないい。これは多様性のことだ。

そして、みんな違うけど、みんな同じだ。
同じものを見て感動し、泣き、集団として同じ方向を向くことができる。
人に共通性がなければこんなことはできない。

違うけど同じ。この一見矛盾していることを受け入れるために、
この痛みがあったのかもしれない。

自分の痛みの源泉と、この真実に気づいた時、
違いにこだわる武装は脆くも崩れはじめた。

皮むきはまだまだ続く

今では、以前のような極端に嫌悪する感情はわかなくなった。
反応は完全になくなりはしないがだいぶ穏やかになった。

今でも新しいことへの興味は変わらないし、
多数派の意見に流されることもそれほどない。
単なる反発的な拒否反応は薄くなってきた。
とはいえ抵抗はまだ残ったままだ。

このような変化は、一般的には「丸くなった」と表現するのかもしれない。
自分としては、単に行動や反応が丸くなっただけでなく、
自分のこれまでの行動の源泉の痛みに繋がったという点が
とても大切だと感じている。

この特性は、これまで自分を武装し生存させてきてくれた装備だった。
今では、この装備は不要になり、武装解除することにした。

こうやって、1つずつ不要になった武装を解除していく、
玉ねぎの皮を向くように。
きっと、死ぬまでずっと。

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