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「俺は悪くない」の反抗的態度の内側に何がある?(後編)

前編の概要

『私の武装解除日記』、最初に取り上げるのは「俺は悪くない」という反抗的態度の内側の構造について。

前編では、外側の世界で自分が無自覚にどんな行動を取っていたかを紹介した。後編では、その内側の構造や、メンタルモデルを作り出したエピソードを紹介する。

「自分は悪くない」を生み出した体験

自分が就学前くらいの頃、叔父の結婚披露宴に家族で出席した。初めての結婚披露宴への出席だったのできっと楽しみにしていたのだろう。

当時、自分には2歳年下の弟がいたが、彼はまだ幼く披露宴の最中にじっとしていられずに席を立ち、会場をチョロチョロ歩いていた。

自分は兄として、一生懸命弟をなだめて大人しくさせようと必死になっていた。しかし、弟は一向に大人しくしてくれず、しまいには披露宴の担当者に、自分と弟の2人まとめて会場の外に出されてしまった。

その後、叔父の披露宴が終わるまで、2人で会場の外で待っているしかなかい。この時のことはかすかな記憶しかないが、自分の頭に強烈に残っていた感情がある。

それは…

こんなに弟をなだめようと必死にやったのに、自分までつまみだされたのは納得がいかない!

だった。

当時、子供の頃の自分が、親や担当者に「自分は弟をなだめようと一生懸命やったんだ」と弁解したかの記憶はない。たとえアピールしても、子供の稚拙な説明を聞き入れてもらえなかったことは想像に難くない。

後日、このエピソードを母親に確認した時に「あー、あの時は仕方なかったよねぇ」とあっさりスルーされてしまった。両親もつまみ出されるのは致し方なしと捉えていたようだ。

このエピソードは強烈に記憶に残ってはいたが、別にだから誰かを恨むというわけでもなく、親に文句を言うわけでもなく、ただ子供の頃の笑い話として「いやー、あの時は納得いかなかったなー」と思い出した時に家族の中で話す程度の印象しかなかった。

しかし、心の奥には、この時の誰にも理解されない、受け取ってもらえない悲しみ・やるせなさ・無力さ、絶望が、自分の中に解放されないエネルギーとして滞っていたようだ。

自分のことを誰もわかってくれない、一生懸命やったのに認めてもらえない

この時の負の感情を自分から切り離し、笑い話に転化させ、過去の思い出として昇華させたようにしていた。(ちなみに感情を切り離して感じなくするという技は自分の特技で様々な場所で活用している)

だけども、本当はその時の感情はずーっと内側にあった。

この出来事の結果として、自分の内的世界では「自分はいくら説明を尽くしてもわかってもらえない」という信念、「俺は悪くない」という強烈な反発・抵抗が刻まれたようだ。

そして、刻まれた無意識の痛みを回避しようと、誰かに指摘された時に、責められたと認知し、大きな抵抗として自分の中で立ち上がってくるようになった。

自分の至らなさへの反応

そして、自分の至らなさについて認めたくないが、認めざるを得ないという感情があった。

つい、うっかり、ミスをする自分。考え事をしていると、他の事が抜け落ちてしまう自分。自分ではどうにもならない至らなさ。

子供の頃からよく財布を落としていた。何度も何度も財布を落としすぎて、ようやくチェーン付きの財布を使うことで落とし物を防ぐことができた。チェーン付きの財布は、見た目やデザインではなく、どうにもならない自分が生きていくための適応だった。

克服型の人はダメな自分をどんどん克服し、正そうとする。自分の場合、どちらかというと逃避傾向が強く、克服しようとせず、どこか諦めている。

しかしありのままを認めているわけではなくどこかで抵抗がある。自分はダメだのレッテルを貼ることで、なんとか済まそうとしているが、抵抗はなくなっていない。なぜなら自分自身が、ありのままを受け入れていないからだ。

そんな、どこかでダメな自分を認めたくないが、認めざるを得ない。そういう部分を刺激されると無意識に反応してしまうということにも気づいた。

内的世界の構造を理解する

外側になにか事象が起きる際に、他者からの指摘などがあると、自分の内側では次のような構造で反応していた。(雰囲気だけシーケンス図っぽく表現)

俺は悪くないから謝らない構造のシーケンス図(雰囲気だけ)
信念:「自分は他者にわかってもらえない」
トリガー:他者から何かを伝えられる
自動解釈: 自分が責められている→抵抗発動
反応(1):相手を攻撃する(そっちこそXXXじゃないか!)
反応(2):非を認めない(俺だけが悪いわけじゃない。なぜならXXX)
反応(3):言い訳をする(それはXXXだからできなかったんだよね〜。)
反応(4):先に自分で責める(自分がXXXだからダメだ~。ホント俺最悪だ!)
行動:謝らないで上記1〜4を行う
結果:相手も反応して揉める
自分の認知:「あー、やっぱり自分はわかってもらえないなぁ」

流石に、社会人になって(1)や(2)をすることはそれほどないが、会社に通勤していた頃、遅刻した時は(3)か(4)をしていた記憶がある。

素の自分がでてしまう家族との間では、ついついやってしまいがちな事象だった。

反応は自分の内側で自動的に立ち上がり、そこから様々な抵抗(=痛みの回避行動)を行う、これが内側の世界の生存本能の構造だ。

「そんなつもりじゃなかったんだ、わかってほしい」その一心で無意識に様々な回避行動を起こすが、最終的にはどんなに回避しよう行動しても、結局の所「わかってもらえない」という残念な結末が待っている。

この事を、由佐さんに紐解かれて気づかされた時に、日常のささいな行動がこんな内側の構造としてパターン化されていたのかと衝撃を受けた。

そして、自分の奥にあるメンタルモデルとして「自分は相手にわかってもらえない」という信念が、様々な部分に影響を与えているということにも気付かされた。(わかってもらえないに起因する現象は、別の事例でもそのうち紹介する予定)

構造に気づくとどうなるか?

この構造に気づいた後、「責められている」認知する反応が起きているかを自覚できるようになってきた。

相手は別に自分を責めてるわけではないと捉えることができれば、自動的に行っていた回避行動にいかなくて済む。なにより普通に「あー、ごめんねー」と謝ることもできる。

場合によっては、自動的に回避行動にまで行ってしまうこともあるが、その時は「あー、やっちゃったなー」と後で気づいたりもする。

そういえば小中学生のときに、先生に叱られてもブスッとして立っていて、それに反応した先生が更に激怒する、ということが何度かあった。そんな反抗的な態度もここから生まれていたんだなぁと、今となってはわかる。

外側からみたら「反抗的な人間、なんて態度がでかいんだろう」と見えるが、内側の世界では、こんな構造になっていたのだ。

子供の頃の自分と繋がる

子供の頃の自分は「ただわかってほしかった。至らない点もあったけど、そんなつもりじゃなかったんだ、一所懸命にやったんだ。」というのを伝えたくて、受け止めてほしかった。

それが叶わないまま、大人になり行動がパターン化された。
そして、子供の頃の願いに再び繋がった。

当時の両親含め周囲の大人たちの対応も、今となっては致し方ないということを頭では理解できるし、小さな弟だけ外に出すのは危険だということもわかる。

同じような場面に遭遇すると、大抵は騒ぐ子供を連れ出すのは母親がやるイメージがある。それを兄に任せて外で待たせる、という選択肢をとったのは、逆に自分を信頼してくれたからなのかもしれない。(この件は母に確認中)

もし、当時の自分に出会ったら、こう伝えてあげたい。

一所懸命、弟をなだめようと頑張ってくれたんだね、ありがとう。
せっかく頑張ったのにつまみ出されてしまって、
悲しいよね、納得いかないよね。

感情のコントロールと何が違う?

ここまで読んだ人の中には、

「自分で衝動を抑えて振る舞えば済む話ではないの?」

と疑問に思う人もいるかもしれない。

「わざわざ昔のエピソードを蒸し返して語る話か?」

と感じる人もいるかもしれない。

確かに、他者との関係を適切に保とうとするには、自分の感情の噴出ポイントを学習し、自制し、コントロールすることでも対応できる。実際、仕事の場面ではそうしてきたし、それを日常生活のすべてに広げていくこともできる。いわゆる感情コントロールだ。

しかし、構造や痛みを知り自覚的になることと、構造を知らないで単に感情をコントロールしようとすることの間には、決定的に異なる点がある。それは自分の内側にあるエネルギーの扱い方だ。

何度も何度もこの反応を起こしているということは、内側に分離したエネルギーがあると捉える。

もし、このサインに気づかずに感情をコントロールしようとしても、それは内側から湧き上がるエネルギーを外側から抑えることに等しい。蛇口をひねって水がでているホースの先を塞ごうとする行為をイメージしてほしい。

内側から生じるエネルギーを抑え込もうとするとどうなるか?どこかで暴発したり、別の形で噴出したり、それが身体の症状に現れてくることもあるだろう。

不快感情は、その奥にある分離した自分に繋がるメッセージだ。不快感情にきちんと目を向けてあげない限り、本当の自分には繋がれない。だから、何度も何度もそれを知らせようと不快感情によって伝え続けようとする。

外側から感情をコントロールして抑え込もうとする行為は、内側からのエネルギーに対して、外側から別のエネルギーを当てていることに等しい。抵抗に抵抗で応答しているために、余計なエネルギーを使っている。

エネルギーにエネルギーをぶつけて抑え込むのと、エネルギーが流れるままに流してあげるのでは、どちらが自然かは自明だ。

構造や痛みに気づいて自覚的になるということは、外側からできるだけ抵抗をしないことであり、自然な状態として、ありのままで感じようとすることだ。

そのエネルギーの流れに抵抗せずに生きることができれば、無駄なエネルギーを使わずに済むし、もっと楽になる。そうしていくことで、分離したエネルギーは徐々に流れていき弱まったり、消えていくのではないだろうか。

不快を味わい尽くす

非難されて不快なこともあるだろうし、がっかりすることもある。結果が伴わずに打ちのめされることもある。しかし、それらを嫌な感情として切り離したり、回避しようとやっきにしようとするのでなく、不快感情を味わい尽くそうと変わったことが一番の大きな変化だ。

不快が指し示す、自分の内側のあるものに繋がるために、そのメッセージを読み解こうという姿勢だ。

自分の抱えるパターンはこれだけでないし、他に気づいていないパターンもきっとある。それらに一つ一つ自覚的になり、パターンに気づき、少しづつ不快を感じ、抵抗をやめて、ありのまま受け取っていくように変化させていくことが、自分の武装解除のプロセスだと考えている。

子供や他者の中に同じパターンを見る

この行動パターンに気づいた後、自分の息子にも同じようなパターンが存在することに気づいた。その信念が生まれたエピソードもなんとなく思い当たるところがある。

非難されたと受け取る、非を認めない、言い訳をする、反撃する、etc…。これらの自分とまったく同じパターンで行動する息子に対して、彼の内側の世界に思いを馳せる。

内的世界を知らないと、言い訳ばっかりしてる、反抗的、などと受け止めてしまいがちな他者の行動も、自分のような内的世界の構造があるとわかったら受け止め方が変わる。

そして、自分と同じパターンを持っている人に対しては、余計に反応してしまうことも学んだ。他者の行動に対してイライラする裏には、自分の中にも同じものがあることに気づいたからだ。

もしイラッとすることがあったら、自動反応に飲み込まれずに、その場に立ち止まり、こう考えることにしている。

ああ、自分の中にも、あるんだな」と。

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