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アレグザンダー勉強会にむけて「私とパターン、そしてアレグザンダー」(1st Decade)

はじめに

@kyon_mmさんが、アレグザンダー勉強会を開催することになった。

これに先駆けて自分とパタンやアレグザンダーとの略歴を自己紹介として書こうとしたら、思ったより壮大になってしまったので、noteにまとめておこうと思う。

「パタン・ランゲージの付録C」には到底及ばないが、自分の2010年までの熱かった時代の話でもあるし、何らかの歴史的経緯となる古文書としての意味合いはあるかと思いnoteに公開することにしておく。

なにせ昔の話なので内容に誤りなどあればどうぞご指摘ください。(自分の都合良いようにいいように解釈してる可能性もあり。。。)

私のパタンランゲージ、アレグザンダーとの出会いについては、以前ざっとスライドをまとめているが、今回はもう少し記憶を蘇えらせて個人的な点も含めて詳しく書いてみることにする。

デザインパターンとの出会い

デザインパターンと出会ったのは1999年、まだ新卒で入社した会社に所属しているころ。当時、オブジェクト指向設計を使ったECシステムの開発に関わっていたこともありGoF本を買って通勤途中で読みながら、常に机の横におきオブジェクト思考と同時進行で学んでいた。

2000年にフリーランスエンジニアとなり、2002年にとあるプロジェクトで永続化フレームワークの設計をしないといけなくなった。その時にJapan PLoP(JPLoP)のサイトに掲載されていた「永続化フレームワーク」のパターン集を見つけ、実際にそれを元に設計実装を行い非常に助かったというのが「デザインパターン」の原体験だ。ちなみにこのパターンの筆者の一人であるウルシステムズの平澤さんには後年感謝を伝えた。

それから日本語訳されているパターン関連の本はかたっぱしから読んだし、実際にGoFのパターンを使ったりしながら過ごしてきた。ここまではいわゆる「デザインパターン」を使うという文脈だ。

ただ、当時「パターンを使っていればよい設計」みたいな風潮を耳にしたことがあった。「このコードにはXX個のパターン使ってます(ドヤ)」みたいな。こういう風潮について「違うだろう?」という疑問はもっていた気がする。

パターンコミュニティとの出会い

日本のパターンコミュニティは、JPLoPが一度なくなり、初期のパターンコミュニティの活動を引き継ぎ、早稲田大学の鷲崎さん、羽生田さんらがソフトウェア工学研究会の分科会として「パターンワーキンググループ」(パターンWG)を運営していた。ただしPLoPというよりはソフトウェアパターンについての勉強会というイメージだった。

2003年に永和システムマネジメント(ESM)に転職したが、平鍋さんもJPLoP時代にパターンコミュニティに参加してパターンを寄稿していたこともありパターンには造詣が深かった。パターンWGで、平鍋さんたちと「インタラクティブプレゼンテーションパターン」の発表をしたことがあるのがパターン関連のプレゼンの最初の経験だった。(自分は資料作成を手伝ったくらいだが)

それ以来、パターンWGのイベントに何度か顔を出しつつ「ソフトウェアパターン」の本を読みつつ、アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」も購入しパラパラめくっていた。

きっかけは沢マン

自分の中でパターンについての認識の潮目が変わったのが2007年頃から。ちょうどチェンジビジョンという会社に出向していた頃、豆蔵さんのオフィスに間借りしていた時期があった。その時に羽生田さんに「沢田マンション超一級資料」を共同購入しない?と誘われたのだ。

「沢田マンション」が何かよくわからないまま共同購入して入手し読んてみたら、その内容があまりに面白くて妻の実家が愛媛だったこともあり、帰省の際に高知に行き、実際に沢マンを訪れてそのスケール感に圧倒された。

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2008年7月のアジャイルプロセス協議会の5周年記念セミナーでは沢マンを題材にしたパネルディスカッションがあり、その時に(なぜか)ソフトウェア開発代表としてパネルに登壇した。

そこで初めて中埜博さん、沢マン超一級資料の加賀谷さんと御会いしたのだった。このイベントの事前打合せを中埜さんの当時の事務所があった四谷に集って色々な話をしたのだが、その時に中埜さんが

「沢マンの建築プロセスはパタン・ランゲージのプロセスと同じなんだ」

と言われ沢マンとパタン・ランゲージがつながった。

その後、Agile2008で沢マンの発表するぞ! と意気込んで英語で資料も作っていったのだが実際はだれも参加してくれなかったw

Agile2008から帰国後、アジャイルプロセス協議会の企画でも高知に沢マンに泊まりにいったりもして、その後に沢マンについての記事をEM ZERO Vol.3.1に寄稿して一部で話題になった。後日この記事を見て沢マンを訪れる人もいたと沢マン住人に聞いたこともある。

後にWikiばなの第7回でも沢マンの発表を行う。すっかり「kkd=沢マンの人」というイメージがついたのはこのあたりだろう。

第二次パターンブームはESMから

ちょうど、2009年の初頭にESM社内でパタン・ランゲージが再燃した。きっかけは失念したが、多分角谷さんが中埜さんの「パタン・ランゲージによる住まいづくり」を見つけて「この本はヤバイ」と言いだした気がする。

それから回りを巻き込んでアレグザンダーやパタン・ランゲージについて盛り上ったのかなー? 当時のAmazonの在庫はESMの面々が買ってしまい在庫がなくなってた。

やり残した仕事「The Nature of Order」を見つける

個人的にも中埜さんの本以外も、アレグザンダーの本はかたっぱしから読んだのもちょうど2008〜9年頃だった。

そして、どういうきっかけか忘れたけど、The Nature of Order(NOO)を勉強しようという話になった。まずは、NOOのWebサイトにサマリーがあったので、それを皆で読み進めていった。

このサマリーを読んだ後に、もっとNOOを勉強しようということで、James Coplien氏(Cope)の「On the Nature of The Nature of Order『ネイチャ・オブ・オーダー』を考える」をみつけて読書会をした。

ここでNOOの主要コンセプトである全体性センター(こちらでは中心と訳されている)、構造保存変容(構造保存変換と訳されている)、15のプロパティシーケンスのコンセプトをなんとなく掴んだ。

その後に多分角谷さんがCopeの「East Meets West」を見つけて勉強会を行ったのだが、この内容に驚いた。

それは、スライド P.23の以下の文章だ。

そこで、皆さんにお願いしたいのです。その道へ歩み進む手助けをしてください

これを見て「えー、Copeが10年前にこんなこと言ってるじゃん。でもNOOなんて全然話題にもなってない。いったい10年なにやってたの?」という印象を持ったのだった。

「East Meets West」は2000年、Copeが最後に来日したのが2002年。この10年Copeに「手助けしてください」と問われた日本では、それ以降NOOについての動きは一切なかった(と当時感じていた)。

その時に、私と角谷さんの間で「Copeを日本に呼びたい!」とアレグザンダー祭りの初期コンセプトが生まれた。

ちなみに、この「East Meets West」を翻訳したのは金沢さんで、JPLoPのメンバーでもあり日本のオブジェクト指向の黎明期から活躍されていた大先輩だ。Copeも会うといつも「金沢さんはどうしてるのか?」と聞いていた。(Copeが気にかけていたもう一人の人物はインアルカディア(当時)の藤野さん)

金沢さんは、オブジェクト倶楽部の第一回のゲストでもある。10年前の自分たちは、先輩方のやり残した仕事を10年後に受け継いだのだと今ならわかる。

その後、当時はまだ翻訳書がなかったNOOの全4巻を購入し、ESMの読書会ではVol.2くらいまでやっていた。

正直NOO本は英語だし、難解だし、理解したと言うにはほど遠かったがが、自分は特に構造保存変容(Structure Preserving Transformation)について書かれたVol.2にひかれた。

Vol.2は全体性を作りあげるプロセスについての話であり、これは「ソフトウェアにおけるリファクタリングや、漸進的進化的プロセスと同じだ」と直観したからだ。

そして、構造保存変容とは単に前の構造を保持したまま変っていくというだけでなく、全体性を保持したまま変っていくプロセスということだ。

建築の世界で言うと、建物の構造だけでなく、その建物がある場所と建物の関係を保持したまま変っていくということ。その場にそぐわない建物がそこに建てられると違和感があるだろう。全体性とは対象の周辺との関係性を含めた話だということにここで気づかされた。(この視点は、その前にアレックス・カー氏の「犬と鬼」を読んでいたので非常に納得できた部分だ。)

パターン、Wiki、XPのレビューそしてイベント

時を同じくして、2009/07に江渡さんの名著『パターン、Wiki、XP』が出版された。ちょうど自分はこの本のレビューワーとして参加しており、角谷さんと二人でかなりレビューコメントを寄せた記憶がある。

江渡さんは遡るぼること2年前の2007年に、オブジェクト倶楽部で本書の前進となる『WikiとXPをつなぐ時を超えたプログラミングの道』という講演をされている。江渡さんの卓越した探究心と構成力の結晶だ。

恐らく自分も聞いていたのだと思うが、当時はチェンジビジョンでプロダクトを作る事に頭が回っていたせいか、あまりピンときていなかったようだ。

出版後に『パターン、Wiki、XP』のトークセッションが池袋ジュンク堂で行われたが、この時は多くの人が集り、事前の打合せも含めて大変盛り上ったのを記憶している。今でいうグラレコではないが、江渡さんの話の背景で、自分と角谷さんと二人で模造紙にビジュアライズ(というか落書き)していったのはとても面白かった。(本記事のアイキャッチの画像はその時の模造紙の写真)

参加のまちづくり入門演習の衝撃

2009年7月に中埜博さんが、早稲田大学芸術学校都市デザイン科夏期集中コースとして『参加のまちづくり入門演習』を開催すると知って、角谷さんと二人で参加してきた。これは夏の暑い盛りに、平日毎日、夜の3時間を5日間連続で講義と演習を行うという恐しくハードな研修だった。

そこには、偶然「パターン・Wiki・XP」の江渡さん、「オブジェクト指向と哲学」の河合昭男さん(故人)本橋正成さんも参加していた。演習は基本学生さんがメインではあったが、我々のような社会人の参加者が、実際に行政でまちづくりに関わる人たちもいて非常に多様性に溢れた場だった。毎日演習の後に中埜さんを囲んで呑み会をやっていたのを思い出す。

その時の内容は衝撃でしばらく言語化するのが難しかった。しばらく余韻にひたり、その後IT系の参加者で集って感想戦をした。

「あの演習はなんだったのか?」と。

一言で行ってしまえば、これまでのPLoPなどの活動は「パターンの作り方」にフォーカスしており「パタンの使い方」についてはほとんどフォーカスしていなかった。

しかし最も重要なのは「どうやってパタン・ランゲージを使って無名の質を生み出すか」であって、本来はそこに目を向けないといけないかったはずだ。

更に、元々利用者の参加を想定していたパターンを、専門家のためのパターンにしてしまったという点で

「今のソフトウェアパターンはアレグザンダーが目指していた方向性とは真逆ではないか?」

という疑問に対し参加のまちづくり入門演習によって一定の回答を得られた気がしたのだった。

(余談だが、この演習については受講した10年後に突然夢で「ああ、あの時の衝撃はこれだったのだ!」という遅れてきた気づきがあった。それは別途公開したい。)

この演習にはパタン・ランゲージの使い方を身体で学ぶというとても貴重な機会であり、NOOのセンタリングプロセスも包含されていたという点でとても興味深いものだった。

先の「Copeを呼びたい」と「参加のまちづくりを体験してもらいたい」という二つが重なってアレグザンダー祭りのコンセプトができあがった。

有志で「参加のまちづくり入門演習」を企画する

また、しばらくして「この参加のまちづくり入門演習は、来年度から早稲田でもうやらないんだよ」との話を中埜さんから聞いた。

それはもったいない!なんとかして他の人が参加できる機会を作らなくては!」と有志で開催する企画を思いついた。

演習の参加者である角谷さん、江渡さん、本橋さんに相談をし、演習には参加していなかったが中埜さんと縁が深い羽生田さん、演習中の会場の協力をアットウェアの北野さん(北野さんはESMの天野さんに紹介してもらった)にも相談し、中埜さんとパートナーの笹川さんと打合せをしながら2010/04/17,25と2週にわたって「参加のまちづくり入門演習」を開催にこぎつけた。(後述するがその時既に自分は東京から愛媛に移住していたのだが。)

パターンWGからAsianPLoPへのつなぎ

また、これまでの動きとは別にパターンWGで現場向けのパターンのイベントをできないかと早稲田大学の鷲崎さんにアプローチして、二人でパターンライティングのイベントを2009/11に開催した。鷲崎さんはXPJUGの初期からのスタッフで顔馴染みでもあったのでこのあたりの話はスムーズにいった。

自分もそれまで本格的にパターンを書くということはやっていなかったので、主催側としてもとても勉強になった。またちょうどこの頃に鷲崎さんの方でもAsianPLoPを企画立ち上げしているタイミングでもあり、パターンWGは、AsianPLoPへと形を変えて続いていった。このイベントはちょうど端境期に行われたことになる。

アレグザンダー読書会、そして東野高校へ

パターンWGとは別の流れで、羽生田さん、沖田さんらが主催していたアレグザンダー読書会というコミュニティがあった。ここは中埜さんを招いて丹念にアレグザンダーの著作を丁寧に読み議論していくというスタイルを取っていた。

自分も何度かこちらのコミュニティにお邪魔したことがあり、それがきっかけで2009/9にアレグザンダーが設計を手掛けた(=そして中埜さんも関与した)盈進学園東野高校のキャンパスを見学する機会を頂いた。

中埜さんのガイドでキャンパスを歩き、それぞれの建築物がどのような用途を持ってデザインされたのかを丹念に伺った。どの建物も景観も特徴的であった。

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しかし自分が一番惹かれたのは建物ではなかった。リヤカーを引いて構内を歩いている方にお話を伺ったのだが、その方はなんと学生の父兄だった。父兄が学校を自分の手で美しくしようとするこの人と建物との関係がこの盈進学園の名付けえぬ質なのだといたく感動した。

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ちなみに、この時の写真をFlickrに公開してしているのだが、この10年で海外の方からの問い合わせが非常に多いことに驚いた。最初は日本語でコメントをつけていたのだが「英語にした方がいい」との指摘を頂いて英語に全て変えたほどだ。

その指摘をくれたのが、オーストラリアのパーマカルチャーデザイナーのCecilia Macaulayさんだった。

パーマカルチャーとパタン・ランゲージ、そしてアジャイル(=XP)の関係も非常に興味深いのだが解説は別の機会に譲ることにする。

そしてアレグザンダー祭りへ

そして2010/01にオブジェクト倶楽部のイベントとして「アレグザンダー祭り」を開催することになった。

しかしこのイベントはデンマークに住んでいたCopeを日本に呼ぶということもあり、それまでのオブジェクト倶楽部のイベントよりも高額の参加費をいただかないと海外からお呼びするCopeの旅費交通費の金額が支払えないことがネックになっていた。

しかし高額の参加費で開催して本当に人が集るのか?という点に当時は自信が持てずにオブジェクト倶楽部内でもどうするかを議論していた記憶がある。

少しでも集客を増やそうと「アレグザンダー祭りへの道」というタイトルで、当時配信していたオブジェクト倶楽部のメルマガに、開催2ヶ月前から3週連続で「なぜアレグザンダー祭りを開催するのか」についての記事を寄稿して、そこから誘導しようと試みた。

http://objectclub.jp/ml-arch/magazine/312.html
http://objectclub.jp/ml-arch/magazine/313.html
http://objectclub.jp/ml-arch/magazine/314.html

アレグザンダー祭りは参加費は8000円。今となっては格安と思うが、2010年当時はCopeや中埜さんの知名度もパタンランゲージの知名度も低く、更には国内でカンファンレンスにお金を払って参加するという文化が浸透しておらず、本当に人が集るのかが不安であった。

最終的にはなんとか参加者も集まり、アレグザンダー祭り自体は無事開催することができた。色々な人に色々な刺激を与えたイベントになりクロージングではちょっと泣けてきたのを思いだす。

当時の講演動画はこちら↓

Togetterによるまとめはこちら↓

アレグザンダー祭りの副産物

アレグザンダー祭りで川口さんがCopeと議論したことがきっかけとなり、Scrumの父である Jeff Sutherland氏を日本に呼ぶ企画がはじまり、JeffとScrumの祖父と言われる野中郁次郎先生が日本で初対面をするというきっかけとなったそうだ。二人が対面する場に居合せたのであれは歴史的な出来事だったと感慨深い。

その後の野中先生と平鍋さんの親交、Scrum Inc Japanの設立も含めて、アレグザンダー祭りが大河の一滴となったのなら企画者名利につきる。

またアレグザンダー祭り以降、Copeは毎年日本に来日するようになり、認定スクラムマスターや組織パターンの研修を実施するようになった。CopeのCSMを受講した人もこの10年でかなりの数になっているだろう。これは川口さんがCopeと繋がって動いてくれているおかげだ。心から感謝したい。(詳しくは以下に書いてある)

また、中埜さんとCopeの組合せも非常に興味深い出会いで、2人は盈進学園を見学して互いに尊敬しあう間柄になっているようだ。これもアレグザンダー祭りの副産物として生まれたことに感謝したい。

東京を離れるまえの最後っ屁

実は、アレグザンダー祭りが開催されたのは2010/01/15であったが、その翌日に東京から妻の実家のある愛媛に引っ越した

1/16はちょうど盈進学園の見学に行くCopeをホテルに迎えにいき、中埜さんと待合せた池袋の西武線の改札までアテンドした後、愛媛に飛び東京を離れたのだった。

本当の本当に、ESMで最後の仕事がアレグザンダー祭りだったのだ。

2008年頃に家庭の事情で妻の実家がある愛媛に戻らないといけなくなり、なんとか愛媛に住みながら会社に籍を置けないかと相談をしていた。

しかし、2008年当時は今のようなリモートワークの発想もなく、会社の仕組みとしても対応しておらず、チェンジビジョンあるいはESMに籍を残したまま愛媛に住むことはできないと言われた。

そのため移住後は退社することとなり、2009年からチェンジビジョンへの出向が解除となって最後の一年をESMで過すことになったのだった。

自分がESMに戻ってからNOOの読書会がはじまったというのは偶然ではあったが、逆に愛媛移住がなかったらNOO読書会も、アレグザンダー祭りも開催されなかったのかもしれないと考えると、自分の愛媛移住は意味があったのかなと思う。

そういう意味で、アレグザンダー祭りは東京を離れる前の置き土産というか最後っ屁だったんだろうなぁ。

東京を離れたのが1/16、次男が生まれたのが1/22、そして数ヶ月は育児休暇として仕事も決めず、知り合いもほとんどいないまま愛媛で子育てに奮闘するのだった...

2008-9年の間にいろいろな事が起こったけど、それも日本のパタンコミュニティを作り運営し先に探求していた先輩方の作った道を後から辿っていきながら、途中から新しく自分たちなりの道を作って行った。中埜さん、Copeさん、羽生田さん、平鍋さん、金沢さん、その他国内国外の諸先輩方には感謝しかない。

それら先輩方から受け継いだ物を元に、同時代に一緒に行動した江渡さん、本橋さん、鷲崎さん、北野さんらが居たからこそ上記の活動ができた。

そして身近に角谷さんという非常に感度が高い人がいたのはとても大きかった。うまく言語化できない状態でも、直感で「これだー!」と突き進むことができたのは彼がいたからこそ。打てば響き、共鳴しあい、自分の東京生活の最後の一年をアレグザンダー三昧(?)で駆け抜けることができた。

一緒に駆け抜けた皆さんに10年の時を越えて改めて感謝を述べたい。

さて、ここまでが自分のパタン・ランゲージ 1st Decade(2000-2010)のお話。

続きは 苦悩(?)の2nd Decade(2010-2020)へ。

更新情報

・アレグザンダー祭りの副産物としてCopeに関する話題を追加した。謝辞を追加。(5/13 21:00)
・アレグザンダー読書会、東野高校の写真を追加、謝辞を追加、JPLoPのリンクを追加(5/14 7:00)






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