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『花束みたいな恋をした』を見た。

一昨日『花束みたいな恋をした』を見た。超良かった。
で、これは書き残そうと思った。

最近は朝7:00には起きて家の辺りを散歩し、ファミマで買ったコーヒーを片手に文章を書き、1,000文字書いたら業務委託の仕事をし、という感じで生きている。一昨日もそんな感じだった。パートナーが会社の同僚とご飯を食べに出てしまっていたので、仕事が終わるとひとりダラダラと飯を食べ、風呂に入り、まだ時間があるけど何か作業できるほどの体力もなかったので映画を見ようと思った。

たまにこういうぬるいテンションで映画を見る。心に余裕がないと意外と映画って見られないもので、ふと空いたひとりの時間はそのためにぴったりだった。たいてい、見ようと思ってたのに見てない作品を見る。公開から大なり小なり時間が経ってから思い出すくらいなので割と自分的名作が多い。心が揺さぶられる。『花束みたいな恋をした』もそうだった。

あらすじはネットに転がっているので改めては書かないが、ぼくのように前情報を一切持たずにいた人が「少女漫画系の映画でしょ、はいはい」と切り捨ててしまっていたとしたら大変にもったいないので、そこだけ補足しておきたい。そんな人いないのかな、どうなんだろう。ぼくは完全にそう思っていたから「たまにはベタ甘の恋愛映画でも見るか」と思って見始めたんだけど、とても良い意味で裏切られた。

何かしらのカルチャーに浸ってきて、好きな作品をアーティストを共有できる友人を見つけた時の嬉しさを知っている人なら、見て損はないんじゃなかろうか。冒頭からオタクの厄介感がすごいのでちょっとウッとなるかもしれないが、そこを一旦飲みくだせればあとは最後まで楽しめると思う。映画見放題な方はとりあえずチラ見してみてもいいかもしれない。ぼくは Amazon Prime でチラ見して、良かったのでそのまま最後まで見た。


この映画では2015 - 2020年を使って大学生から社会人になる過程を描く。1995年生まれのぼくにとってこの時代感覚はドンピシャだったし、具体的な名前として現れ、何かを象徴していくモノたちが楽々と刺さる。

押井守を神と呼ぶ感じとか、『ショーシャンクの空に』を見る自分をマニアックとか言っちゃう出版社の人とか。ONE OK ROCK が「代理店の人が思う若者が好きな音楽」の代表として扱われていて、麦が「お、おう」ってなっている様子には、元ONE OK ROCKファンとしてむず痒い感覚もあったが。

サブカルオタクとしての矜持があって、それはひどく勝手なものだけど、当人からすれば真剣に大切にされるべきものとしてある。ダサい。けど、そういう気持ちを持った人同士の心地よい連帯はわかる。すごく身に覚えがある。

麦が社会に自分をほとんど埋め込んでいる象徴として前田裕二の『人生の勝算』を選んだのにもニヤッとしてしまう。NewsPicks界隈のあの空気感ね、って容易に思わされる。カルチャーからは遠ざかってはいるけど、きっちり「ちょっとだけ偏った位置」を選んでいる感じが良い。

これを10年後に見る人は意味がわかるのかしらと、要らぬ心配をしてしまうくらいには当時の今をやっていた。すごい思い切りだと感じた。狙いすましてブッ刺しにきている。

そしてそれが、恋愛に包んで提示される。恋愛の描き方がとても日常なのも良い。あらすじを見れば終電を逃してたまたま偶然出会うふたり、などと書かれているけど、その出会いの間、絹はずっと両手にトイレットペーパーを持っている。夢のようではない。常に現実とつながった場所にある。

そして、そうであるからこそ、前半の麦と絹に共感を(あるいは共感性羞恥を)持ってしまったぼくのような人間は、その後に待ち受ける別れの展開に、どこかに転がってるかもしれない自分の姿を見てしまうのだと思う。

ベランダに机と椅子置いて、昼間っからワイン飲んでいたかったじゃん。自分たちだけに伝わる言語で、いつまでも語り合える二人でいたかったじゃん。その夢が幼稚な、ナイーブな物だと知っていても、あるいは知っているからこそ、それに憧れてしまうじゃん。

徹頭徹尾共感できない人はいくらでもいるのだろうし、それ以上に鬱陶しさを感じる人も大勢いると思う。ぼくが今したように「じゃん」と同意を求めるような仕草に、怪訝な顔をする人が絶対いる。好きにさせてくれよ、と思ってしまう。それが絹の叫んでいことだし、麦が選べなかったことでもある。


別れを決めた後、2人は3ヶ月一緒に暮らす。映画鑑賞後になんとなく眺めていたレビューサイトの中に、その描写について「意味がわからない、リアリティがない」と書いてあるレビューを見つけて、ぼくはへぇ、となった。きっと別れ = 断絶という感覚を持つ人が書いてるんだろうというのは想像がつくけれど。リアリティとはつくづく見る側の経験に左右されるなあと思わされる。

個人的にはあれほどリアリティのあるものはなかったし、あれほど救いを感じるものもなかった。たとえ束の間であれ、ふたりは出会った時のような空気を取り戻すことができていた。あれがなかったら映画のラスト、美味しかった近所のパン屋さんを思い出すことも、そのストリートビューに映った姿を見つけてはしゃぐことも、麦にはできなかったはずだった。

余談だが、強いてリアリティの話をするならファミレスでの別れ話のシーンだけはちょっと気になった。学生の頃いつも座っていたお決まりの席は空いておらず、そのすぐ奥にある席に案内される絹と麦。深刻な空気で話をしていると、いつの間にか空いていた例の席に、ライブ帰りらしい学生ふたりが座り、サブカル話に花を咲かせている。過去の自分たちを重ね合わせてしまい、号泣する絹と麦。絹は耐えきれず店を出て、麦はその後を追う。いや絹と麦はいい。そりゃあんなの見せつけられたら泣きたくもなるよ。

学生の方である。正装して深刻な空気で喋っている人がすぐ近くに座ってて、しかもそのふたりが微妙にこっちを気にしてて、挙句泣き出したと思ったら店を飛び出していく。流石にちょっと気になっちゃうのではなかろうか。ふたりの世界に入り込んでたら気づかないものかな。あそこだけちょっと「いや、学生」と思ってシリアスシーンなのに少し笑ってしまった。

けれど作品的な演出を感じたのはそれくらいで、他はあまりに劇的なことが起きず、またさらっと表面を撫でるような描写にとどめられているが故に、類型化されたふたりだという感覚はありつつも全体を通して「ああ、こういうことがきっとどこかで起きてるのかもな」と思わされる作りになっていた。


映画を見終わってからというもの、この映画を見た同世代の人がどういう感想を抱くのか、聞きたくて仕方がない自分がいる。親しい人とかにはちょっと見てほしいって思ってしまう。正直、万人におすすめできるとは全く思ってないので「ぜひ見るべき」とまでは言えないのだが。

この映画が好きな人とは仲良くなれそうな気がする。自分たちだけに通じる言葉が、容易に見つかりそうな気がする。まさに絹と麦のやっていたことで、オタクの典型的振る舞いではあるのだが「ああそうだよね、そこ刺さるよね、めっちゃわかるわあ」ってやりたい。

そういう人の物語で、そういう要素がたくさん詰まっているからこそ、この映画を使ってそういうことがしたくなる。だってそういうことが好きな人にこそ、この映画ぶっ刺さってそうだから。

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