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モザイクアートのように、文章を書く。

昨日は写真、今日は文章の話。
例のごとく朝散歩をしながらつらつらと思ったことを、今回は短めに。


文章の好みと、オリジナリティについて考えていました。

文章を書くときずっと、自分独自の比喩や表現を見つけようとして躍起になっていた記憶があります。

昔は言い回しや比喩をうんうんと唸り、閃き、紙に書きつける瞬間の興奮がすなわち文章を書く楽しみだったと言ってしまっても、そう外れてはいないでしょう。
高校生くらいまではそうやって、自分と文章と戦っていました。

何かを生み出そうという気持ちがとてもとても強かったのだと思います。
新しいもの、尖ったもの、自分なりなもの。
言葉自体をいじくり、そういうものを探そうと、四苦八苦していました。

ただ表現方法をいくら尖らせようとしても、限界があるんですよね。自分の中から出てくる発想には限りがあるし、そもそも我々が使うこの言葉というもの自体が、とても強い縛りの中に存在しているわけで。

だから手元にある言葉をいじり続けていても、だんだんとできることがなくなってしまう。そうしてふと読んだ他者の作品に打ちのめされて、ああどうして自分はこんな発想しかできないのだろうと、文章を書くことそのものを諦めたくなってしまう。

文章を書きたいと思いながら、それでも書くことができない時間を多く過ごしてきたぼくの中には、そういう行き止まりの経験が何度もありました。


毎日 note を書く中で、ぼくはなるべく格好いい言葉を使わないようにしようと心がけています。
平凡な、ありきたりな言葉だけを使って、表現をしたいと思っています。

言葉はカケラです。
いろいろな色や形や大きさ、材質の小さなカケラで、それを縦に、横に、並べていって、ぼくたちは文章を作り上げます。

どんな場所に並べてもすっと馴染んでくれるような優しい色のカケラもあれば、誰が使うんだと顔を顰めたくなるようなどぎつい色のカケラもある。

目を惹くのは、派手なものです。だからつい、そういうかけらカケラを選びたくなる。もしかしたら目を惹かんとするばかりに、自分でカケラを拵えてしまうこともあるかもしれない。

でも最後、本当に見てほしいのは、そのカケラたちが並んで作られた一枚の絵です。

絵の中で、全てのカケラはきちんとそれぞれの役割を果たしているんだろうか。無駄な隙間は生まれていないか。ひとつだけ浮いてしまったものはないか。よれはないか。潰れはないか。

絵に込めた意図を、カケラたちは背負ってくれているのか。

ぼくたちが文章を書く、というのは、言葉というカケラを選び、貼り付け、一枚のモザイクアートを完成させるような営みなのかもしれない。


そう捉えたとき、ぼくは、なるべく優しくて柔らかいカケラを使って、作品をつくりたいと思いました。全体として調和が取れていて、でも薄ぼんやりとしない、形のある文章を書きたいと考えています。

さて、読んでくださっているみなさんの目に、ぼくの絵は、どう映っているんでしょうか。

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