捨てる

“捨てる” というと「ときめき(Spark Joy)」で一世を風靡したこんまりさんが思い浮かぶ。片づけをするとき、ある品物に「ときめ」けば残し、「ときめ」かなければ捨てる。非常に明快で、それでいて効果的なメソッドだ。

捨てる、という行為にはコツがいる。
「もったいない」という気持ちといかに戦うか。購入にかかった金額、費やした時間、積み重ねた思い出、モノそれぞれに手放し難い理由は違うけれど、これら「捨てない理由」にいかにスパッと線を引くか。

明確な基準が必要だし、理由の多くが突き詰めれば感情であるからこそ、「ときめき」という感情ベースの基準は力を発揮しやすい。

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小学生の頃、モノを捨てるのが大変に苦手な子どもだった。
机の上にはいつも学校で受け取ったプリントが散乱しており、クローゼットにはどこで買ったかもわからないキーホルダーやぬいぐるみがぎゅうぎゅうに押し込められている。

年に一回、大晦日に大掃除をする習慣があった我が家で、その時だけ全てのものを引っ張り出し片づけをするのだけれど、当時の自分にとって片づけとは「綺麗にしまうこと」でしかなく、パズルのように品々を組み合わせてなんとか狭い収納スペースに全てを押し込めるゲームに、ただ躍起になっていた。

いつだったかは覚えていないけれど、何だったかは覚えている。
小さな木彫りのきつねだった。
キーホルダーだったはずだけれど、とっくに紐はちぎれてしまっていて、自立もしないから机に飾ることもできない。片づけのために引っ張り出してきても、そのまま違う箱に納めてしまうだけ。もはやどこで買ったのかすら覚えていない。

ある年、いつものように大掃除を始め、いつものように収納から取り出し手に取ったきつねを見て、ふと、素朴に思った。

「これ、残す意味あるか?」

数年間、取り出しては戻しを繰り返した積み重ねのせいで、何か大切なモノのような気持ちになっているけれど、逆にいえば取り出しては戻しを繰り返しているだけなのだ。彼がぼくの目の前に現れるのは年に一度だけで、その一度だって、次の箱に収められるための時間でしかない。

ぼくの片付けの時間を、ほんの少し使うだけの存在。

少し躊躇った。一度ゴミ袋に入れ、やっぱり取り出した。
そして結局、捨てることにした。

たった一回の決断だったけれど、これが決定的だった。一度の決断が、自分の中に基準を生んだ。あのきつねを捨てたなら、あのオコジョのキーホルダーもいらないな。ボロボロのイルカのぬいぐるみも、もう捨ててしまっていいだろう。ぽんぽんと思い浮かぶ。今までパンパンにモノが詰まっていた収納スペースが、見る間に空いていく。

このときぼくは、モノを捨てる楽しさを知った。

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そして今も、変わらずモノを捨てるのが好きだ。
モノを捨てると身軽になる。何か余計なものが削ぎ落とされて、今の自分が際立つ感覚がする。それはある種の解放だ。

こんまりメソッドにはこんな言葉が書いてある。

片づけを通して自分の内面をみつめることで、
あなたが「どういうものに囲まれて生きたいのか」、
自分の価値観を発見する手がかりになります。

引用元:About KonMari

自分の内面をみつめること。
自分の価値観を発見する手がかり。

ぼくはもう少しだけ、付け加えたい。

“今” の自分の内面をみつめること。
”今” の自分の価値観を発見する手がかり。

ときめくか否か、という判断は、よりつまらない表現に落としてしまえば「”今” 自分が興味を持っているか否か」ということ。
片づけをするぞと決めた自分が、モノに触れたそのとき、その今、刹那的に起こる情動に耳を傾けるということだ。(刹那の感覚も情動の手触りも伝わるときめきという言葉、そして Spark Joy という翻訳の素晴らしさよ)

情動に従い、勇気を持って捨てる。それは自分に素直になるという体験でもある。

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ぼくは、モノを捨てるのが好きだ。
触れるモノたちを通して、何気なく通り過ぎてきた自分の小さな心の動きを再認識する瞬間が好きだ。いつしか当たり前になっていたモノたちが姿を消したあとの、空白の寂しさと新しさが好きだ。

そして、残ったモノたちが教えてくれる、”今” の自分を生きるのだ。

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