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芸術に苦手意識を持っていたぼくが美術館にいけるようになったときのこと。

自分だけのナイーブな感情を、改めて文章にしたいと思った。

昔、大学生の時に同じ題材で文章を書いたことがある。当時作っていたブログ「ぼくをつくるばしょ。」に乗せていたそれはブログごとすでに消してしまったのだけれど、このことについてはいつまでも、自分の中に残り続けていた。

だから改めて、表に出してみようと思う。

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ぼくが初めて行った美術展は、2016年、付き合っていた彼女に連れていってもらった「フェルメールとレンブラント展」だった。

美術や芸術に、特に興味があるわけではなかった。苦手ですらあった。ぼくと美術の接点は、学校の授業が唯一だった。絵を見せられ、何か感想を述べさせられる。テストの点数を取るのは得意だったけれど、どうにもつかみどころがなくふわふわとしていて、そのくせ「わからない」ことを許さないような美術の雰囲気がどうにも好きになれなかった。

だからというわけではないけれど、フェルメールはなんとなく聞いたことがあったけれどレンブレントは初耳だったし、開催場所だった森アーツセンターギャラリーなんて、存在も知らなかった。大体、六本木にいくの自体ほとんど初めてだ。おのぼりさんよろしく、駅に着くなりキョロキョロとあたりを見回しながら、肩身狭く、六本木ヒルズを歩いたことを覚えている。

一方の彼女はごくごく慣れた様子で、迷うこともなくのんびりと会場までの案内をしてくれていた。中に入ると真っ先にロッカールームへ。ゆっくり歩き回るからなるべく身軽にした方がいいよ、とか、会場内少し寒いかもだからパーカーは着ていった方がいいかも、なんてアドバイスもくれた。

芸術分野に詳しい子だった。小さい頃からそういったものによく触れていたらしい。中高一貫の、いわゆるお嬢様学校出身だったのも影響しているのかもしれない。芸術の各方面に一定詳しく、美術館にもしょっちゅう通っていた。大学での研究テーマは美術鑑賞、美術教育。少なくともぼくから見れば、筋金入りの芸術畑の人である。

その日展示会についていったのは、結局のところ、彼女の趣味や好きなことを理解したいという、とても単純な理由だったのだと思う。だから少しの苦手意識を持ちつつも、彼女と共有できる体験が増えることが楽しみでもあった。


展示室に入る。さてどうするのかと、彼女の様子を少し伺う。入り口に置かれた目録を一枚手に取った。壁に描かれた最初の解説文をざっと流しみる。目録に目を落とししばし沈黙。そしてそのままスタスタと、最初の絵の方へ歩いていった。

まだ解説文に目を通してたぼくは、無言で先へ進む彼女に驚き、慌てて後を追った。けれど最初の絵を、彼女は一瞥だけして華麗にスルーしてしまう。よくわからず後を追うと、その次もスルー。混乱し始めているぼくには目もくれず。スタスタスタ。

と、ある絵の前で立ち止まった。じぃっと絵を見つめる。何に引っかかったのか、微動だにせず1つの絵をじっと見つめ続ける。全然動かない。1分、2分。この間、無言。ちらと解説文に目をむけ、また絵に目を戻す。

ここまで様子を見ていてようやく、どうやらぼくが思っていたような「一緒に絵を見る」という行動がこの子の頭にはないのだということを理解した。展示会に連れて行くという役割は、展示室内に入った時点ですでに達成していたらしい。その後の鑑賞は、自分で好きにやってくれということのようだった。

何か釈然としない気持ちを抱えつつ、とりあえず彼女にならって絵に目を向けた。じぃっと絵の中を覗き込んでみる。1分、2分。特に何も感じない。彼女が先へ進む。ぼくも先へ進む。

しばらく真似っ子を続けた。向こうが先に進めばついていき、向こうが立ち止まればぼくも立ち止まる。絵を見て、解説文を見て、また絵を見て。かける時間はまちまちで、そこになんとなく彼女の興味や意思を感じながら、一歩後ろをヒナのようにくっついて歩く。


もう、どの作品だったか覚えてはいないのだけれど、彼女が一瞥してスルーした作品の中に、少しだけ、興味を惹いたものがあった。風景画だったと思う。暗い画面の中に、対比するように夕焼けのような明かりが差し込む絵だった気がするけれど、どうだったか。

とにかくその作品を目にしたとき、絵に対し、初めて「好きかも」と思った。おずおずとした、日々の中であればきっと無視してしまっただろう、弱々しい感覚だった。ひどく小さなそれは、展示室の静寂の中だからこそ、拾うことができた感情だった。

立ち止まって、その絵と向き合った。その絵がなんで自分を惹きつけたのか、考えてみたけれど、ぼくはあまりに知識がなかったから、どうにもうまく理由がまとまらなかった。部分を見て、全体を見て、解説文を読んで、もう一度絵を見て、色々思考を巡らせて。最終的に「やっぱなんか好き」というふわっとした気持ちに戻ってくる。そんなことを繰り返した。

不思議な感覚だった。絵に向き合いながら、一方で自分の中を探っているような。鑑賞ってこういうことなのかなと、ぼんやりと思った。5分足らずの短い時間だったと思うけれど、とても大切で、価値のある時間を過ごした気がした。

ここからはもう自由だった。自分にとって引っ掛かりのなかった絵はさっさとスルーして、気になる絵、好きかもと思った一角では必ず立ち止まり、絵と向き合った。自分なりに丁寧に、そこで立ち止まった意味と、目の前の絵の素敵さを理解しようと努めた。


彼女は出口で待ってくれていた。いつの間にか、ずいぶんな遅れをとっていたらしい。ごめんお待たせ、というと、なんてことないよというように微笑む。

特に何を話すでもなく、グッズコーナーを見て回った。彼女が気に入った絵のポストカードを一枚買って、ぼくは手ぶらで、森ビルを降りた。心地の良い疲労感だった。自分にとっておそらく初めて体験した"鑑賞"の余韻に浸っていた。

すごい新しかった、楽しかった、としか言えないぼくに、彼女はよかった、とひとことだけを言ってくれた。

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とても昔のことだから、多くの誇張と美化と、創作に塗れていた描写になっていると思う。けれど、ぼくにとっての鑑賞という体験はもう、こういうものとして刻まれてしまっている。

以来、東京で暇な時間ができそうな時、あるいは Twitter で気になる展示を見かけた時、美術館に足を運ぶことはぼくの中で普通のことになった。回を重ねるごとに見る視点が少しずつ増え、考えの深さも多少なり向上して、もしかしたら当時より少しだけ、楽しめるようになっているかもしれない。

でもその中心には、今も、この時の体験がいる気がする。

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