後輩を「あの子」と呼ぶこと。

後輩のことを「子」とつけて呼んでしまう癖がある。

特に人と後輩の話をしているときに多い。「あの子はこういうところが得意だから」とか「後輩の子と遊んだんだけど」とか。特に意識的にやっていたわけではないけれど、先輩や同期を指して「あの子」なんて言ったことがないから、区別は明確だ。

今日ふと思った。後輩を「あの子」と呼ぶのは、失礼なのではないかと。

そこには明らかに、相手を対等に見ていない響きがある。後輩というラベルとともに、相手を自分よりも小さく見ている雰囲気を感じる。

しかし翻って考えると、ぼく自身も先輩から「君はそういう子だよね」なんて言われ方をされたことがある。ぼくは人に貼られるレッテルや下に見るような目線にわりあい敏感で、そういうものに対して半ば反射的に苛立ちを覚えやすい体質なのだけれど、どうもこの呼び方に対しては、特に嫌だともムカつくとも思ってこなかった気がするのだ。

なぜだろうと不思議に思う。
そして過去付き合いがあった先輩たちを思い浮かべてみた。

ひとつ思い当たるのは、その先輩たちが総じてみんな、後輩を大切にしてくれていたということ。彼ら彼女らの目線は、まさに親が子に向ける目線に近かった。自分より歳若い、経験の浅い人間に対し、その行動を見守り、成長を楽しむ目をしていた。

だから嫌ではなかったのかもしれない。彼ら彼女らのいう「あの子」「この子」には温かさがあった。下に見て、貶めようという意図ではなく、ただ純粋に、後輩という存在を受け入れ、見守ろうという優しさがあった。

そしてぼくは今、そうやって大事に接してもらった体験から、その恩を贈るような気持ちで親しみとともに後輩を「あの子」と呼んでしまうのかもしれない。


悩ましいところではある。こういう言葉をなおすのか、そのまま使うか。違和感を覚えてしまった時点で、小さなトゲが言葉に生えるような気がする。触れると、ちくりと伝わる小さな痛み。相手に投げてしまったときは、この小さなトゲが相手に刺さってしまいやしなかったかと、不安になる。

親しみがあれば、ぼくは気にしなかった。けれど親しみがあろうとも、言葉のトゲそのものが刺さってしまう人もいる。自分の心が安らかであるために、傷をつけるかもしれない小さなトゲをなるべく人様に向けたくないと考えてしまうのは、それはそれでどうしようもないことだ。

結局のところ何が良くて何がダメかなんて受け手によって変わるもので、投げる側が気にしすぎても仕方がない。そこはもう、受け手と素直にコミュニケーションを取り、すり合わせ、お互いが心地よい場所を探っていくしかない。

ただきっとぼくは、これから後輩を「あの子」と言ってしまうたびに、そういう言葉を聞くたびに、起こる何かちくりとしたものと、付き合って生きていくのだと思う。

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