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ブックレビュー「最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常」

先日あるところで東京藝大建築科出身の方が本書を推薦していたので、読んでみることにした。2016年に初版が出ているのでもう5年前の本だが、当時巷で話題になっていたのは覚えていた。

学生時代からあまり美術には縁のなかった私だが、東京藝大との関係は長い人生で一度だけある。2018年1月に宮廻先生によるクローン文化財を観に行った時だ。

初めて上野の同大学キャンパスに入場、私でも知っているような文化財のクローンが展示されていたのだが、特に下の写真にある「笛を吹く少年」の像では、「模倣→受容→変容→超越」によってオリジナルを超越するのだ、という発想に驚かされた。

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この宮廻先生のプロフィールも興味深いもので、少々記憶が曖昧だが、高校卒業後広告会社に勤務していた時に水商売系(だったか?)の副業で大成功して、それから東京藝大美術学部デザイン科で日本画を学び、平山郁夫に師事して、保存修復技術の研究からこういったクローン文化財に行き着いた、というものだった。

本書の著者である二宮敦人氏は1985年生まれの小説家で本書が初ノンフィクション。奥様が執筆当時現役の東京藝大生だったこともあり、彼女の案内で東京藝大へ侵入して学生たちにインタビューをしていく、という筋書きだ。

本書の根底に流れるのは、東京藝大が「最後の秘境」であり「天才たちのカオスな日常」であるという本書のタイトルに沿った著者による追認作業だ。著者にとって、妻も「普通では無い」し、東京藝大に通う人も「天才」だったり、見かけは普通なのにやっていることが常人とはかけ離れている、という驚きやエピソードが満載だ。

東京藝大の上野キャンパスには大きく分けて美術学部と音楽学部があるが、その両者の文化は対照的といえる。例えば美術学部には全員が遅刻する絵画科の教授会がある一方、音楽学部には教授が師匠でもある邦楽科のレッスンでは、必ず30分前に来て部屋の準備をするのが当たり前らしい。

また2002年に出来た東京藝大の音楽環境創造科(通称「音環」)は北千住に校舎があって、そこは「何でもあり」、あるいは他に分類できないものとして作曲、音響録音、音響心理、社会学、舞台芸術、アートマネジメントが学べる。

「藝祭」というお祭りが年に一回盛大に行われて、音楽と芸術が入り乱れ、学生たちの超絶技巧を惜しみなく発揮され、「爆発」する。一度ぜひ観に行ってみたいものだ。

難関入試を突破して自由に学べる大学で切磋琢磨する学生たちだが、この道で食っていくのは大変難しい。卒業生の半数近くが「進路未定・他」で「行方不明」になっているという。企業に就職をする人は1割程度、それ以外では進学する人が3割ぐらい。

東京藝大の教授たちは皆そういう厳しい環境の中で競争に勝ち残った人たちなので神業を持つ人が多い。例えば筆者の奥さんは彫刻専攻なのでノミの背を 砥石で平にする必要があるのだが、その作業に奥さんは1時間程度かかるのだが教授はわずか2秒でやってしまうらしい。

とはいえ、先の「師匠」である邦楽科は別として、教授と学生の距離は他の大学での関係よりも大変近い。学科数が多いため、学科ことの任数が少なく、中には専攻学生が一人で先生を独占できる学科まである。また何が正解かわからないアートの世界で切磋琢磨する美術学部の教授と学生は仲間とも言える。

先に著者は東京藝大が「最後の秘境」であり「天才たちのカオスな日常」である、という本書のタイトルの追認作業をしていると述べたが、「フツー」と「天才」/「秘境」という二元論には少々違和感があった。

確かに東京藝大の学生は難関を突破してきただけの才能はあり、その才能を磨いていくプロセスは常人が経験していないことかもしれない。しかし「フツー」のように見える著者や読者がやっていることの中にも、他人から見たらとても「経験していないこと」であったり「カオス」であったりすることはたくさんあるだろう。違いがあるとしたら著者のような人がそれらを公にしていないということだけだ。

とは言え、本書に登場する人物と彼らの発想は皆「面白い」ことは間違い無いし、著者が丁寧なインタビューで彼らの日常に迫る手法は堅実で丁寧だ。

本書に登場する東京藝大生から学べるとしたら、日常的に「フツー」だと思って気に留めていないものでも、改めて視点を変えて見てみると「フツー」は面白いものになってくる、そして新しいものの創造は学際的・ボーダーレスに協働していくことで生まれる、ということなのだと思う。東京藝大の教授と学生はそういうセンスが優れている人たちであり、東京藝大は創造の場として理想的な場所だと思う。

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