寿命が尽きる直前、神様によって一日だけ若き日に戻された男の話

 男は目覚めた。直前まで病院のベッドの上で臨終するところだったのに。

 先程まで穏やかな眠気に包まれていたはずだった。だが今はその眠気が消え去り、息苦しさや胸の窮屈さまでもが露ほども感じられなくなっていた。体が別のものに変わったような感覚が男にはあった。

 「(死後の世界なのだろうか。)」

 男の視界に映る景色は病院の天井ではない。耳から入る雑音も病院の音ではない。しかし死後の世界でもなかった。男にはこの場所に見覚えがあった。男が若い頃に住んでいた実家だった。

 男は病院にいた時とは違って体を易易と起こす。そして自身の「手」を見てその若さに驚いた。

 ぼんやりと考えながら、ある超常的な契約のことを思い出していた。そのことで、ここが死後の世界ではないことを男は悟った。

    ◇

 洗面台へ向かった男は鏡に写る自分の顔を眺める。

 「(こんなに若い頃に戻されたのか。)」

 男は、神が自分との契約を果たしてくれたことに感謝した。人生の最後に一度だけ在りし日に魂を送ってくれるという契約の遂行に。

 それと同時に、タイムリミットが今夜0時であることを思い出した。起床から0時までということだから18時間もないのだ。

 「ルネ、時間。」

 慌てて声を出すが、何も起きない。

 男は思考を巡らせて、おもむろにポケットを探ると何かを取り出した。手に握っているのは携帯端末である。

 「(そういえばこの時代はiPhoneなんてものを使ってたな。懐かしい。)」

 そして現在時刻を確認する男。

 「(2020年か。50年以上も若返ったんだよな。)」

 男は顔を洗った後、リビングに向かった。

    ◇

 廊下からリビングに入ったとき、男は想像していなかった先客を目にした。言葉で言い表すことのできない感情で胸の中がいっぱいになった。

 それから静かに、その先客の名前を呼んだ。

 彼女は男のことを見ながら尻尾を振った。

 リビングには彼女の他にも先客が二名いる。彼らはカーテン越しに差し込む柔らかい日光を浴びながら床に寝転んでいた。

 皆、この時代に男と一緒に暮らした家族だった。

 男は彼らより何倍も長生きした。彼らが旅立ったあと、新しく猫を飼うことはなかった。

 「みんな久しぶり。忘れるわけないよ。」

 そう呟き彼らを撫でた。

 そしてしばらく彼らと一緒に日光を浴びた。

    ◇

 男は家の外に出た。日光と風を浴びながら川沿いを走る。

 走るのは何十年ぶりだろう。自分はいつから走らなくなったのだろう。死ぬ間際だというのに、若い肉体に戻ったことで男の心は躍っていた。

 河川敷の一角に腰をおろした男は思いつく人間に電話をかけた。彼らの声が聞きたかった。彼らにとってみれば今日は何ていうことのない日のはずである。

 友人に言いたいことがあった。もう30年以上も会っていない友人と、今は話すことができる。

 電話越しの友人の声に懐かしさを感じた。声を覚えていることに安堵した。

 友人は笑いながら言った。

 『——てか先週会ったばっかじゃん。』

 「まぁそうだけどさ。最近は色々世の中大変だから心配で。声聞けて良かったよ。」

 そんなことを喋りながら、適当に取り繕った。

 男は自分が知っている未来の出来事を話してよいか迷った。だが、もし変えることができるのなら…。

 「全然関係ない話していい?」

 『何の話?』

 「これめっちゃ覚えといてほしいんだけど、2040年の大晦日の話なんだけどさぁ——」

 30年前の話をした。

 男の心の中にある棘がゆっくりと引き抜かれたような気がした。

 季節がら、日が短くなりつつある。夜には家に戻らなければ。

    ◇

 今度は、昨晩まで病室のベッドのそばで寄り添っていてくれた伴侶に電話をかけた。

 男は先月から呼吸器疾患が悪化し会話ができなくなっていた。2070年現在におけるあらゆる手段を試したが、眠るとき以外の男は目を開けているのが精一杯だった。この一ヶ月間、伴侶には感謝の気持ちを伝えられずにいた。それだけでなく今までの付き合いの中でも、照れくさい気持ちのせいで度々言葉に蓋をしてしまっていたことを、声を出せなくなってから後悔し始めていた。

 

 電話越しの相手の声はいつもと変わらなかった。

 この期に及んでも、男にはまだ照れがあった。

 「——あれすごかったよホント。何がすごいって音楽もいいしさぁ。今度一緒に観に行こうよ。」

 男は当時の自分になりきって、どうでもよい世間話をした。

 「え、あぁ、あの映画まだか…。そっか、あれ2026年公開か…。」

 相変わらずだといって相手は男のことを笑った。

 そんなふうな会話を二人はいつもしていた。

 男の耳には、昨晩ベッドに横たわる自分へ言った伴侶の言葉が強く残っていた。最後にその言葉に応えようと口を開いた。

 「昨日…じゃないや。遠い未来、50年後に俺が死ぬときには、もう二人でこうやって話せなくなってると思うけど…全部俺には届いてるから心配しないで。」

 ベッドのそばにいる伴侶だと思って感謝の言葉を投げかけた。

 「今まで50年一緒にいてくれてありがとう。それと、この会話を憶えてくれていたことも——」

 昨晩、50年越しの言葉を打ち明けたのは伴侶の方だった。この電話のときにはまだ分かってなかったくせに。

 こうして男の心の蟠(わだかまり)は全て解けた。

 「——今夜は俺より先にいなくなっちゃう人達と過ごすね。」

 最後に伴侶へ大好きだと伝えた。

    ◇

 家に帰宅すると既に男の父が仕事から戻っていた。陽は沈み、玄関から廊下、リビングへと続く暖色の照明が、家の中を優しく包んでいる。

 リビングに父がいた。

 父が生きている。

 父は男を見ると、ただ「おかえり」とだけ言った。その日常感のあるドライさにかえって安心した。男は肉体こそ若いが感覚は老成していた。父に再び会えて嬉しい気持ちがある一方、自分もこれから父のもとへ逝くという心持ちが一層あった。

 

 二人で昔話をした。男の子供の頃の話や、まだお互いしていなかった話を。

 「懐かしいよね。あのキャンプ場、山梨だっけ?——」

 昔の話だけでなく、世の中の出来事や、父が好きな昔の音楽や映画の話で会話が盛り上がった。新しい発見や驚く話があっても、それをこれから誰かに話したり世間に発信するわけでもないのに男は幸せを感じていた。

 年寄りの自分が、人生の最後にまだ知らない話を沢山聞くことができたのは嬉しかった。だがそれよりも、こうやって会えなくなってしまった存在と一緒にいることさえできれば、話なんか得られなくたって良かった。

 「いやホント2001年宇宙の旅は当時スゴかったからね。有楽町の劇場でさぁ——」

 「その話、何百回も…(いや…このときはまだ聞いてないっけ)」

 男は時計に目を移した。タイムリミットが刻々と迫ってきている。

 男は父の寿命を知っている。生き生きと喋る父の姿を見ているうちに、心ならず晩年の姿と比較してしまいそうになる。

 男は十分長生きした。もう残りの時間を自分のためには使いたくなかった。今は元気なみんなにこれからも長く生きて欲しい。自分が晩年になって、やっと父親の立場が分かった。

 男が口を開いた。

 「お父さんが死ぬ前に一日だけ若い頃に戻れたら、誰になんて言う?」

 その問いかけに対して父はしばし沈黙した。

 そして椅子に座ったまま、男の方に体を向き直して静かに答えた。 

 「親父にそれと同じ質問をする。」

 「…。」

 更に父は続けた。

 「あとは、長生きしろって言いたいかな。」

 父親からの返答を聞いた男は、自分が言いたかった言葉を声に出した。

 「おんなじだね。…長生きしてくれよ。」

 「大丈夫。100まで生きるからな。」

 父は笑いながら言った。

 それから男は父に対して助言をいくつかした。健康について、災害について、思いつく限りのことを。それで父の今後の人生がどう変わるか分からない。それでも男は、自分より先にいなくなってしまった人への想いをぶつけた。

 かけがえのない時間はあっという間に過ぎていった。時計の針が23時58分を指す。

 「俺、そろそろ出かけるわ。」

 男のつぶやきに父は「そうか。気をつけて。」と返事をした。

 「(もうそろそろお迎えだ。)」

 男はおもむろに立ち上がり、父と握手した。

 「健康に気をつけて。」

 「わかってるよ。」

 男は死ぬ瞬間、一度だけ若き日に戻された。

 0時までの時間しか与えられていない。

 猫が男のことを見つめていた。

 彼らのことも撫でた。

 「みんな長生きしろよ。」

 こうやってみんなと再開することができた。

 男は、初めて神に感謝した。

 これから自分は彼らのもとに行けるのだろうか。それとも、ただ意識が消えて無になるのか。

 時刻は0時を迎えた。

 「——」

    ◇

 優しい暖色の光の中に、男はいた。

(おわり)

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