見出し画像

3.11の記憶

私個人は被災者ではないし福島出身でも無いが、東日本大震災で色々と変化があったのは覚えている。特に、震災以後に得た体験や知識によって行動基準が随分と変わった。
意味があるかどうかは微妙だが、覚えているうちに当時の事を書き留めておこうと思う。

震災当日は東京の職場で普通に働いていた。
ゆれが始まってからもノンキに仕事を続けていたり、こんな動画を撮っていたりと、全く危機感が無かった。一応、状況次第で避難しようとは考えていたが、それほどシリアスに捉えてはいなかったように思う。

その後、館内アナウンスで建物から退避するように指示があり外に避難した。
しばらく外で情報収集をしていたが、鉄道が軒並み止まっている事を知り事態の深刻さを理解し始めた。その時点ではまだ津波のニュースはそれほど報じられていなかったように思う。

結局、安全の確認が出来ないとかで建物に戻ることは許されず、帰宅指示が出た。ただ、鉄道は止まっているので普通には帰れない。
タクシー待ちも長蛇の列で、バスも動いているかどうか定かではない。幸い、自宅が歩いて帰れる場所だったので徒歩で帰ることにした。

その時に覚えているのは、携帯電話が全く繋がらない事だった。後で聞いた話によるとPHSは大丈夫だったらしい。この辺はユーザー数の少なさが逆にメリットになったようだ。

徒歩での帰宅に際してGoogle Mapが非常に役に立った。ルートの確認ができて、大まかでも現在位置が確認出来るのが非常に有効だった。道は同じような徒歩帰宅者で溢れかえっており、歩道が埋め尽くされていて非常に歩きづらかったのを覚えている。

3,4時間程だったろうか、無事に帰宅できた。部屋の状況を確認したが特に被害は無かったので情報収集を始め、その辺りで津波の事を知ったように思う。

とりあえず食事の支度をしようと近所のスーパーに行くと、保存できそうな食料品が棚からほとんど消えていた。コンビニも数件巡ったがどこも同じようなものだった。
仕方なく残っている商品を幾つか買って帰宅したが、テレビのニュースはどのチャンネルも 震災一色になり、普通の番組はキャンセルされ、延々とニュースが流れていた。

その後、会社の緊急連絡先のメールアドレスに初めてメールが来ており、しばらく会社が休みになった事を知った。その時点では、いつから再開するかの情報は無かった。おそらく建物へ入館可能になるのがいつになるのか目処が立っていなかったのだろう。

交通機関が軒並み麻痺していたのでどこにも行けず数日は自宅で悶々と過ごしていたが、新幹線が復旧して青森まで行けるようになったとのニュースを見て、一時帰郷する事にした。ニュースでは特に被害は報告されていなかったが、津波の被害が無いとは思えないので確認しに行きたかったという理由だったように記憶している。

なんか長くなったので続きます。

おまけ:東京都総務局総合防災部防災管理課 (編集) 東京防災 Kindle版

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?