ダダルズ♯4『裂け目BB'』

《Documenting20240525》
ダダルズ
♯4『裂け目BB'』
於:SCOOL

 ダンス批評・音楽家の桜井圭介氏のおすすめで知った劇団。主宰の大石恵美が作・演出・出演を務める一人芝居、というより怒涛の一人語りだった。ダダルズとは「駄々る」が由来だろうか。観客を前にして110分間ノンストップで吐き出される愚痴のオンパレードに、とにかく圧倒された。

 関西なまりの大石が「意識の流れ」式に紡ぎ出すエピソードは、次のようなものである。女性である「私」は男性の視線を気にして、いつも体の線が出ない服を選んでいること/健康保険証を持っているかいつも不安になること/電車でスマホの操作を尋ねてきた高齢男性が、がっつり出会い系詐欺にひっかかっていたこと/工場アルバイトの同僚から向けられた悪意/子供の頃に体罰教師から植え付けられた抑圧/立食パーティーのいたたまれない空気……。

 それらはどれも、ごく個人的な出来事でありながら、日本社会を覆う「空気」、ひいてはそれを生産する「制度」を鋭く指摘している。ただしこの芝居を「コンシャス」という一言で評すには、あまりにも生々しく、切実な自己省察がここには見られる。たとえば、体罰教師のエピソードはこんな具合である。

 「私」が小学校高学年だった頃の担任・エバラは、すぐに生徒をはたいたり蹴ったりする体罰教師だった。彼は、毎朝、自分の尻を叩きながら「エバラ焼肉のタレ」というCMのフレーズを唱える。子供たちは、エバラに殴られたくないという一心で面白くもないのに爆笑していた。ある日、組体操――これも近年問題視されている虐待的教育の時間において、嫌いな男子がエバラにしばかれ、「私」は心の中で快哉を叫ぶ。しかしその瞬間、「なんやねんこれ、全部」という思いが頭をかすめる。体罰教師からの日常的な抑圧、不条理な組体操、自分の顔をいじってきた男子が教師から暴力を受け、「ざまあみろ」と思った時の自分の気持ち。そのすべてが歪んでいることに気付いた「私」は、しかし、それを説明できる語彙を持たず、校庭の蛇口をすべて全開にするという奇行に走る。結局「私」はエバラに叱られてしまうが、彼女が求めていたのは、この生徒の行動によってエバラが自分の抑圧的態度に気づき、謝罪することだった。もはや回想の中の「私」と今これを語っている「私」の境界を失い、語りに没頭している「私」は、こんな想像を口にする。水を吐き出し続ける蛇口を背にして、エバラを睨みつけている「私」に対して、エバラは謝罪と感謝の言葉を述べる。そし、「僕めっちゃ子供のこと殴ってきました。僕自信も、めちゃくちゃ殴られてきてんな」と告白する。

 エバラ自身、上の世代から抑圧を受けて育ったことで、同じように振る舞うことしかできなかったというのだ。この「暴力の連鎖」をいかに断ち切るかということは、社会の大きな課題である。しかし「私」は、「暴力の連鎖」や「抑圧の再生産」といった口当たりの良い言説では絶対に納得しない。「私」は唇を震わせながら、想像の中のエバラに向かって言う。「お前が殴られてきたことと、私らを殴ることと、ぜんぜんちゃうやろ!」。この、普遍的な言説に決して回収されない「個」の迫力。痛切さ。それは芸術でしか表現することができない人間のリアリティだろう。

 そしてこの芸術に力を与えているのが、一人語りという形式である。私は最初に「意識の流れ」と記した。文学の世界におけるこの手法のもっとも名高い例のひとつは、ウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』だ。そこでは、視点人物が見たもの、聞いたもの、頭に思い浮かべた想念が、途切れることなく綴られる。過去と現在、現実と妄想が混交する文章は、読み手に作中人物の頭の中を直接覗いているような感覚をもたらす。しかしそれは本当に「意識の流れ」なのだろうか? 『響きと怒り』に登場する重度の知的障害者の、または狂気に陥った青年の主観を、言葉で描写できるのだろうか? よくよく考えれば、この小説では見たもの、聞いたもの、頭に思い思い浮かんだ想念が、直接表象されるのではなく、言葉に変換されている。つまり対象(視点人物の意識)と形式(言葉)が不一致なのだ。これを一致させるには、対象が言葉であり、形式も言葉であるような形しかない。それはたとえば、他ならぬ「言葉が書けないこと」を言葉で綴った、ホーフマンスタール『チャンドス卿の手紙』のようなものになるだろう。この短編小説=手紙を綴っているチャンドス卿は、自分がもう本を書けなくなったことを弁明しながら、言葉にできぬ感動を自らに与える如露や馬鍬、ひだまりに寝そべる犬といった事物を数え上げ、さらに毒に苦しむ鼠たちのイメージといった妄想を書きつける――。この『チャンドス卿の手紙』のように、小説において対象と形式が一致した「意識の流れ」とは、意識が紡いだ言葉をそのまま書き記した手紙、あるいは誰かへの語りかけという枠組みの中でしか再現できない。

 そこでこの『裂け目BB'』である。本作において「私」は、今この場に集った観客に語りかけるという形で上演を行う。その言葉は連想式に紡がれ、脱線し、飛躍し、ときに言い淀んで断ち切られる。この語りは、まさに言葉を想起する「私」の「意識の流れ」を再現している。そこでは「私」の意識によって今生まれた言葉(むろんそう観客に思わせるように構成されたセリフ)と、観客に向かって吐き出される言葉が一致しているのだ。この揺るぎなく一貫した形式は、観客の心理を強く同期させる。終盤、悔しさがつのり、涙と鼻水を垂れ流しながら呪詛の言葉を吐きまくった「私」は、ふと我に返ったかのように、観客に向かって「すみません」と頭を下げる。他者から受けた加害を言い募る自分こそが、観客に聞きたくもない口汚い言葉を聞かせてしまった加害者になっていることに気づいたように。ここまで「私」の「意識の流れ」を浴びるように聴き、彼女の心理の襞に潜り込んでいた観客は、ひどく動揺させられる。被害を受けた者が加害者になるような、被害と加害が連鎖する社会では、こんな風に自らの加害に敏感な者だけが苦しみ、被害の突端に立たされるのだ。そのメカニズムを、大きな言説を戦略的に参照しながらも「個」の語りだけで浮かび上がらせていくという作品づくりは、作家にどれだけの内省と心理的負担を強いるものだろうか。それを思うと、この作品を見せてくれたことに感謝の念を感じるとともに、ここで語っている「個」とそれを見ている私という「個」は、同じ社会に生きる者として決して無関係ではないのだということを、深く心に刻んでおきたいと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?