小説『恥辱』読書会用メモ(改訂)

※以下はアラザル同人内で行った『恥辱』(J・M・クッツェー)読書会のためのメモである。カッコ内の文章は意味が通りやすいように簡略化したもので、正確な引用ではない。また、これは批評や書評と言ったレベルの文章ではない。

※7月4日に行われた読書会を受け、7月6日に内容を一部見直しつつ整理した。


【ラウリー】

 本作を通じて、主人公ラウリーには変化した部分もあれば変化していない部分もある。むしろ変わらない部分の方が大きい。

 冒頭で自らの「他人に冷酷な気性」を「この歳で変えようがない」(P7)と開き直っているように、ラウリー自身変わるつもりがないし変われない(P91「世俗法廷で有罪答弁をしたが、悔悛は別の次元の話だ」)(P299、本の終盤においてもラウリーはドラッグで酩酊した女をひっかけ性欲処理する)。彼の描写する自己像と、その倫理観は以下のようなものである。

P53 自身を堕天使ルシファーになぞらえ「愛されることのない化け物には、孤独という裁きが下されるであろう」
P82 「エロスの神が現れた(から女生徒と関係を持った)」
P140 「本能(性的欲望)は罰されるべきではない」「自らの本能を憎むようになった犬は撃ち殺されたほうがましだ」

 しかし物語は彼自身の変化ではなく、彼の立ち位置や彼を取り巻く社会的環境が移り変わることによって激しく展開していく。本作においてまず重要なのは、これら環境の変化がラウリーの一人称視点で書かれているということである。これによって小説は安定した構造とリーダビリティを獲得するのだが、一人称視点の限界も抱え込むことになる。

 その限界の乗り越えについては後述するとして、まずは彼の一人称視点の地の文によって読者に開陳されていく環境の変化を抽出してみる。それは下記のような二項間の力の移譲として整理できる。

★白人から黒人へ(または「西欧から非西欧へ」)
→白人は小作人に堕ち、黒人は新たな主人となる
(P120 土地対策省からの交付金で黒人ペトラスは資産家になりつつあり、白人である父娘が雇われる方になるかもしれない)
(P302 高台に完成したペトラスの家。朝は下のルーシーの家に長い影を落とすだろう)
(P310 ルーシーと結婚すると宣うペトラスに対して、われわれ西欧人のやり方とは違うと言いそうになる)

★文学から現実へ(または「英語(帝国主義)から現地語(ポストコロニアリズム)へ」)
→ワーズワースやバイロンの研究は南アフリカの新しい現実に無力である
(P9 アカデミアの古典現代文学部が閉鎖・リストラされ、今はコミュニケーション学部の准教授を務めるラウリー)
(P182 「英語は複雑化し硬くこわばり、その明晰さを失っている」「この南アフリカの新しい現実を伝えるに適さない」)
(P200 「疲弊した英語。今もって信頼できるのは単音節の単語くらい」)

★都会から田舎へ
→都会は清教徒的な時代に逆戻りし、田舎では暴力が加速する
(P95 「インテリの元夫婦が産んだ、開拓民のようなレズビアンの娘」。しかもロマン主義の詩ではなくディケンズの探偵小説を読んでいる)
(P104 「今は清教徒的な時代なんだ。私生活が公に扱われる」)
(P152 「(現在の南アでは)父娘を襲った事件など1分ごとに起きている」「人間の悪行と言うより巨大な循環システム、そうとでも思わなければ頭がおかしくなってしまう」)
(P272 ケープタウンの自宅は泥棒に荒らされ、鳩の死骸が転がっている → 今や都会も暴力に侵され荒廃しつつある)

 このように整理してみたつもりだが、小説に書かれた内容から余計に遠ざかっているような気がする。ラウリーの一人称視点による地の文はどこを切り取っても論旨明快で断定的であるにも関わらず、上記のようなテーマが時に複数交差し、ラウリー自身の老いや性の問題とも重ね合わされながら異様に細密なテクスト空間を作り上げている。ゆえに要約・抽出が難しくなるが、それこそが本作の文学的完成度を示しているとも言える。


【ルーシー】

 前述のように物語の中でラウリーは価値観を変えず、まるで来たるべき運命まで認識している神のような語り手としてテクストを構成している。であれば、重要なのは彼にとっての「他者」として登場する娘ルーシーの存在だ。ラウリーが最後まで理解できなかったルーシーの行動の理由を探ることで、一人称視点の地の文では表せないラウリーの全体性が陰画のように浮かび上がってくる。

 まず、ラウリーは父娘の身に降りかかったことを「人間の悪行と言うより巨大な循環システム」(P152)が引き起こしたことと理解するのに対して、娘は「私の身に起きたことは、社会問題ではなく個人の問題」(P174)と言い切る。また、黒人の犯人の悪意は「(南アの)歴史に対する恨みだ」と言う父に対して、「個人(自分)に対する恨みを感じた」と、やはり事件を個人的な問題として捉えようとする。そして父には信じられないことに、娘は自分をレイプした犯人を警察に突き出さないばかりか、身ごもった子供を生むという。

 なぜ彼女は個人の問題に拘り、目の前の現実を受け入れようとするのか。彼女のセリフを注意深く読めば、いくつかのヒントが見つかる。「罪だの救済だのは抽象概念よ。私は抽象論では行動しない」(P174)、「(犯人のひとりで精神に障害のある黒人少年)ポラックスは、ここにある事実で追い出せるものではない」「私たちは何も持たない最下段からのスタートを受け入れていかなくてはならないの」(P315)。

 抽象ではなく現実を。つまり父娘の対立はものごとを抽象化・歴史化・一般化しようとする父に対して、目の前にあるものを個別のまま捉える娘という構図を取る。これは【ラウリー】の項で解説した二項の対立と同型だが、他の問題に関してはそれをすべて悟りきっているかのようにクールに語るラウリーは、娘の考えにだけは最後まで理解を示せず、おろおろする。

 つまり娘の存在は父ラウリー(前世代の人間/西洋的知の体現者)の認識の限界を示すメルクマールとなっている。


【動物】

 本作の中でもっとも謎めいた位置を与えられているのが動物である。ラウリーの内面に唯一変化した部分があるとすれば、それは動物に対する感情である。

 動物(あるいはその庇護者であるベヴ)にまつわる記述を抜き出してみる。

P114 ルーシー「ベヴを見くびらないで。彼女はものをわかっている。その恩恵は計り知れない」
P116 ルーシー「人間の特権を動物と分かち合う」に対して、ラウリー「人間と動物は違う、寛容な心から優しくしよう」
P122 犬に魂がないという中世の論争を紹介

 ここまでは、動物に人間と同じ権利を与えるべきと主張する娘の言葉に対しラウリーはほとんど取り合わない。しかしレイプ事件を境にして、ラウリーに理屈や権利意識ではなく感覚として動物との紐帯が芽生える。

P194 2日後に殺されようとしている羊に絆しを感じて戸惑う。「犬を死殺するごとに神経過敏になっていく。慣れない。涙が止まらないことも」
P222 動物の死骸を他のゴミと一緒に焼かせないために手づから焼却炉に運び込む。「死骸の名誉を守る」
P329 〝三本足〟と呼ばれる哀れな犬に情が湧く。彼を聴衆にしてバンジョーで弾き語りする
P336 「殺されることを知らず殺される犬たち」「その時が来たら、殺して焼くことなど全てを彼(三本足)のためにしよう」

 ここで本作の重要なテーマのひとつである芸術についても触れる。そもそもラウリーは36歳で夭折したバイロンのその後の人生を生きている。であるからいくらバイロンのことを研究してもオリジナルの歌曲は一音も書けなかったのだが(P189「細部は頭にありながら最初の一音を書くのをずっと先延ばしにしている」)、終盤で遂にバイロンの死後の世界についての霊感を得る(P281「バイロンの死後、年をとっていくテレサを愛して曲を書くことができるか?」)(P287「バイロンの娘の声がする。「熱い!」と訴える彼女の言葉には誰も応える者がいない」)(P322 「リルケは「生き方を変えよ」と言ったが今更わたしにはできない、だからこそテレサの声が聴きたいのだ」)。

 ラウリーはセクハラ事件による大学追放からレイプ事件を経て、初めて既知のものではない自分の芸術を生み出そうとしている。その新しい芸術の最初の観客になるのが、これから死にゆこうとしている三本足の犬なのである。

 人間に寄り添い、そして殺されるこの動物とはどういった存在なのか。本の中には答えが記されていないこの問いこそが、読者に投げかけられた文学的な命題である。


※補記1 『恥辱』という語について

本作のタイトル'disgrace'は、ロングマン現代英英辞典によれば下記のような意味である。

1 [uncountable] the loss of other people’s respect because you have done something they strongly disapprove of

つまり「我が身を恥じる」という内発的な感情ではなく、他者からの評価を表す単語である。さらに、尊敬から否認へという変化のニュアンスも含んでいる。

本作の日本語訳の本文中にも何度かこの「恥辱」という単語が出てくるが、原文がタイトルと同じ'disgrace'だったのかはわからないものの、P134でセクハラ事件について「世間では恥辱とでも呼ばれるものだろうな」とラウリーが言っているのは、辞書的な意味であろう。

ただし、レイプ事件を秘匿しようとする娘の態度に接した時に主人公が綴る次の文章は意味深である。

P169「これは、ルーシーの秘密となり、わたしの恥辱となる」

訳文では「これは」という単語にわざわざ傍点が打たれている(この本では他に傍点が使われている箇所はほとんどない)。ここでレイプが娘の秘密になることはわかるが、秘匿しているにも関わらずわたしの恥辱になるとはどういうことなのか、謎が残る。


※補記2 父娘の会話について

P315〜316にかけて、次のような会話が交わされる。

ラウリー「なんという屈辱だ」
ルーシー「ええ、そのとおり、屈辱よ。でも、受け入れていかなくてはならないの。最下段からのスタート。権利も、尊厳もなくして」
ラウリー「犬のように」
ルーシー「ええ、犬のように」

この会話で父娘はオウム返しのように相手の言葉を繰り返している。しかしそれが同じ意味合いで使われているとは限らない。

最初の「屈辱」という単語は、ルーシーがわざわざ「そのとおり」と強調するように、同じ意味で使われているのだろう。しかし「犬のように」という表現に関しては微妙だ。なぜならルーシーは犬にも権利や尊厳が認められるべきだと考えているからだ。一方で、ラウリーの犬に対する態度はまだこのときは曖昧である。

犬に魂を認めなかった前半のラウリーであれば、「権利も、尊厳もなくし」た存在を犬にたとえる態度は理解できる。しかしこの会話より前に、ラウリーは「(動物の)死骸の名誉を守る」ために、しなくてもいい労働を引き受けるようになっているのだ(P225)。では、このときラウリーはどういう認識で犬を引き合いに出しているのか? 変わり始めているラウリーの内面がこの言葉に現れているのか?

こうした一語をとっても考える価値のあるところがこの本の奥深いところだと思う。


※補記3 トラックについて

物語のほぼ最後で、ラウリーは中古のトラックを買う。動物の死骸を運ぶためと説明されているが、注意深く読めば他の理由も推測できるのではないか、という指摘がアラザル同人からなされた。

私はまったくその考えに至らなかったが、「長くもつ必要はない」「湯水のごとくお金を使っている。だが、構うものか」などの記述から、確かにその推測は成り立ちそうだ。他に読んだ人の意見も聞きたい。

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