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平凡も積もれば個性となる

ぼくはいわゆる「ゆとり世代」だが、ぼくの知らないところでゆとり教育は終わりをむかえていた。気がついたときにはもう世の中は「脱ゆとり」に舵を切っていて、残されたのは不名誉な「ゆとり世代」という烙印だけだった。はっきり言って、いい迷惑である。そもそもぼくは、時代を一括りにして名前をつけ、なにか理解したような気分になるのは好まない。

ぼく個人の感情としては、すべてをゆとり教育のせいにしたくないというのはある。別に子どもは24時間学校にいるわけではない。学校の外でもぼくに影響を与えてくれた友だちや先輩はいたし、家庭でも親や兄から多くを学んできた。そんな自分が起こした失敗や怠惰を、すべて学校教育になすりつけるのは、慰めにはなるのかもしれないが、ちょっと虫がよすぎないかと思う。

ゆとり教育においては、個性を生かすことがポイントのひとつになっていた。この「個性」というやつが曲者で、ぼくも例に漏れず「個性を伸ばそう」と言われてきたクチだ。とはいえ言われたところで簡単に伸びるものではなく、自分にそもそも個性というやつがあるのかどうかも定かではなかった。

と悶々としているときに、ある大人から言われた言葉が、ぼくのその後の行動の指針になっている。

「非凡になる近道は、平凡を極めること」

パッと聞いたときは、おしゃれな言い回しだなあ、と思っただけで意味は分からなかった。分からなかったが、なにか大事なことを言われた感触はあって、何度も頭のなかでくり返し、自分なりに消化を試みた。

人はみんな違う。十人十色。当然のことだ。しかしどこが違うのか自覚している人は案外少ないのではないか。違いを理解するためには、違いについて考え続けてもラチがあかない。まずどこが同じかを理解するところから始めたほうが、より深いところでの違いの理解に繋がるのではないか。光の明るさを実感するには、闇の暗さを知る必要があるのと同じように。

有名な話だが、「まなぶ(学ぶ)」という言葉は「まねる(真似る)」という言葉と語源を同じくしている。言葉というのは、つくづくよくできている。人はなにかを学ぶためにはまず誰かを真似するところから始めるのが基本ということだろう。

まず真似をして、万人に共通の「型」を身につける。すると、必ず型からずれる部分が出てくる。どれだけ真似しようとしても、はみ出てしまう差分。このどうしても抜けない癖のようなものが、その人の非凡な部分、いわば個性だと考えるに至った。

世の中には、奇抜さを個性と勘違いして突飛なことをしたがる人もいる。でもそういうのは裏返しの平凡さでしかないと思う。平凡の逆をとっているだけ。平凡という土台の上で跳ねているだけ。人のふんどしで相撲をとっているだけ。所詮、平凡の枠内での奇抜さでしかない。

血をキャンバスにぶちまけるような、良識派の眉をしかめさせる逆張りの奇抜さは簡単に手に入るし、思いのほか目を引く。一時的に、もてはやされることもあるかもしれない。しかし中身のなさ、底の浅さは簡単に人に伝わり、メッキはすぐに剥がれるだろう。時間の風化に耐えられるほど強くはないのだ。あの人とかこの人とか、芸能界や芸術界に思い当たる人はたくさんいるが、角が立つので名前を出すのはやめておく。

そう個性はきっと、地味なものだ。ゆえに理解されるのにも時間がかかる。なぜなら、その個性を測るものさしを誰ももっていないから。

ぼくたちに必要なのは、どうしようもなく地味で、なかなか理解されない自分の個性を、それでも根気強く育てていくだけの「ゆとり」ではないかと考えたお盆。明日も仕事(了)

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