見出し画像

速読でもなく、遅読でもなく

速読にあこがれたことがある。速く読むことができれば、限られた時間で多くの本に触れることができ、その分、人生が豊かになるような気がしたのだ。

速読の方法みたいな本を数冊読んで、試してみた。でもすぐに辞めた。情報を拾うことに集中してしまい、自分がいま持っている知識を当てこむような読み方になったから。速読では、一冊の本と出会い、読む前と読んだ後で違う世界が開けるという豊かで無二の体験を、自ら放棄することになってしまいそうだった。

情報を収集するためだけに文章に目を通す場合を除き、速く読むことの効能よりも、それによる悪影響のほうが大きいんじゃないかと個人的には思う。

大学入試を見てみると、限られた時間で膨大な量の文章に目を通し答えを探してくるスキャニング能力が問われており、ほかにも生きていくなかで速く読むことへのプレッシャーを感じることはある。

でもぼくからすれば、速読を自慢する人は、早食いを自慢する人のようなものだ。たしかにすごいとは思うが、本当に料理を味わいたいなら、作った人への敬意があるなら、もっと噛みしめて食べてほしい。速さは量を可能にするけれど、その質を担保してはくれない。何冊読んだ、という事実だけがほしいのなら、速読をすればいい。

じゃあ遅く読めばいいのかというと、そういうものでもない。自転車と同じで、ある程度の速さがないと安定しない部分もある。ようするに、人にはそれぞれ適切な速度がある。無理のない速度で味わうこと、つまり「味読」が重要なのだ。

読書は対話だ。

速く読めば読むほど、対話は一方的なものになる。相手の言い分をただ聞き流している状態だ。

大事なのは、こちらから話しかけることで、目の前の一節を契機に、立ち止まり、考え、悩むこと。自分の側にあるものを投げかけ、テキストからのフィードバックを受けとること。この投げる投げ返されるのくり返しが、目の前の文章を、ただのインクの汚れ以上の豊かなものにしてくれるのだ(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?