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創作のエンジン

ソーシャルネットワークが苦手だった筈の自分が、2021年の8月にツイッターを始め、
同年12月にはnoteを始めた。

一体どんな心境の変化があったのだろう。

ほんの少し前までは
「書いたものが衆人環視の下に晒されるなんて」
「自分が書いたモノ何てどこに需要があるのさ」
何て感じで文章が人前に出ることに対しては、相当否定的な姿勢だったのに何処かで自分の中の方向転換が起こった。

今では、あたかもそれが何かの義務でもあるかのように、日々の気づき、読書からの学びなどを文章化する作業に目覚めてしまい、ジョギング中なども気づくと文のことを考えてしまっている。
今では何故もっと早くに始めていなかったのだろうと後悔するほどに。

何処かで自分の何かが変わったのだ。

お題の存在を機会と捉え、自分の中でどのような力が働き、何が触媒となって文章をネットに上げて見たいという気持ちの変化を起こさせたのかを内省的に考えてみることにして見ました。

海外移住

私達夫婦は海外移住に憧れてシンガポールにやってきたのですが、一方的な私の計画は、渡航当初からお金が殆ど無く、無謀なもので、夫婦の生活を軌道に乗せることだけでも精一杯でした。
英語の殆ど話せなかった私は仕事もクビになってしまい、
生き残りをかけた妻と私の二馬力生活は勉強と仕事の毎日。
やっと少し周りをみる余裕が出てきた頃には年齢はもう40を軽く超えていました。

子供のいなかった私たちは、そんな大切なことを見過ごしたまま、出産能力のある時期をあっという間に経過させてしまっていました。
ここにきてやっとお互いの気持ちを確認しあい、重い腰をあげて、不妊治療を始めたものの、残念ながら時既に遅く、二人の妊活は上手くいかなかった。
妻の悲しい流産の知らせを最後と捉え、年齢を考えて、この辺りで諦めざるを得ないだろうという暗黙の了解に至ったのでした。

周りの家族を見ているとどうしても、家族という単位になれなかった現実を突きつけられる。
何よりも自分のやりたいことを優先させてしまったばかりに、貴重な妻との時期をやり過ごしてしまったことに対する申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

『自分は生き物としての機能を十分に果たすことができなかったのかなあ』
何てことまで考えて始めだした頃には、変わらない現実なのにあまりにネガティブになりすぎている自分が嫌になった。

私は現実から逃げることにした。

物理的な空間はいらない、なぜなら私のお決まりの逃避先は本の世界だから。
読書自体はいつものことで、できる事は人付き合いを避け、自分の時間を極力本に費やす程度のプチ逃避。

それでも勝手知ったるこの世界なら安心だ、間違いがない、いつも通りただ無意識に任せて本を手に取れば良い。

あとは脳の毛様体賦活系が反応して、今の自分に必要な情報を拾い上げてくれる。
そんなことを考えながら、ただただ、メモも取らずに闇雲に読み漁ることが自分にとっての読書流儀だった。

そして本の世界に没頭しているうち、考えを変えさせる言葉に出会うこととなった。

『苦悩という情動はそれについて、明晰判明に表象した途端、苦悩であることをやめる。』

スピノザの言葉は以前にも聞いたことがあったけど、今の自分には強く突き刺さるものになっていた。

自分は思いを言語化したこと何て一度でもあっただろうか。
そもそもできるのだろうか。

“明晰判明に表象“ してみようと努めてノートに書き始めてみるが、そう簡単ではなかった。
読書が好きで少しは自信があったのに、うまく表現する単語すら出てこない。
カオスな頭の中のイメージを一つなぎの文章にすることができない。

そしてこれが自分にとっての意識的アウトプットの始まりだったのだと思います。

始めたが最後、書くことに喜びを感じ始め、自分の思いを言語化する作業はそれ以来続きました。

書いたものにも、不格好なものがあったり、上手くいったと満足できるものがあったりと、自分なりの評価が出だしました。
そして色々なものが描き溜まってくるとそのうち行き場を求めて、人に見てもらいたいという欲まで出てきてしまった。

文化的遺伝子(ミーム)

以前リチャード・ドーキンスの利己的な遺伝子という本を読んだときにミームという言葉が出てきた事を思い出しました。

それは、考え、習慣、物語、技術。これら文化を形成する情報の塊はあたかも遺伝子の様な振る舞いをすることから表現されたもので、
これらの情報の塊も力のあるものは遺伝子のようにコピーされ、あたかも生き物のように繁殖していく性質を持っているという内容のものでした。

私が方針転換をして急にツイッターやnoteを始めたのにはこのミームの存在に思い立ったからではないかという気がしてきました。

残念ながら子供に巡り合うことはできなかった。
それはネガティブなスタートかもしれないけど、そこから新たな力が生まれだし、そしてミームという言葉の存在が潜在的イグニッションとなったのではと思いはじめています。

創作を始めればいつかミームを生み出すことが出来るかもしれない。それはとても寿命の短く影響力の小さなものかも知れない。

でも、自分にだってまだ何かを生み出すことが出来るかもしれないぞ、という考えが生まれ、ささやかな生き甲斐となってくれたのだと思います。

終わりに

未だ考えのまとまっていないであろう妻に、こんな思いつきの話をしたら混乱させてしまうし、まだできるわけがない。
大体noteを始めたことだってまだ内緒なのだ。

もう少し時間が経って、気持ちの整理がついた頃、ビールでも飲みながら今日の考察のことを話してみよう。

目下のところ二人ではじめた創作活動は年末にボーナスを叩いて買ったこの電子ピアノ。

こちらも世に出すにはまだまだ時間がかかりそう。

我が家の新たな創作活動は始まったばかり。

今年も楽しい一年にするぞ。

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