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見えてる世界が違う

老いた親と暮らしていると時折りどうしようもなく苛立つことがある。認知症の症状が進行したのか、同じ間違いを繰り返す。

今買ってきた豆腐を忘れて、「豆腐がない」と言い出す。
同じものを何回も買ってくる。
下ろした現金もどこに置いたか、わからなくなる。
携帯電話を冷蔵庫に入れる・・・。

どうしようもないと思っても苛立ち、毎日後始末をしている。
だから時折り声を荒らげ後で後悔する。

「見えてる世界が違うかもしれない」

医学的な原因は別として、そう考えることにしている。
先走った感情を抑え込むのでなく、自分の認知脳に切り替えてみた。

「忘れた」のではなく、その人の頭の中では始めから「存在」しなかった。だから、何を言われても意味がわからなくなる。
電話を冷蔵庫に入れはいけない理由も分からない
・・・だろうか?

だからといって、「仕方ない」とすべてを我慢しようとは思わない。我慢はすべて自分に振りかかり、逃げ道がなくなる。「適当に・・・」と自分に言い聞かせ、誤魔化して時々逃げるようにしている。

「見えてる世界が違うかもしれない」

この気づきは様々なことに繋がる。
仕事でいえば、お客さんと自分は見えてる世界が違う。
始めてお店に来たお客さんはすべてが新鮮に見える。
でも自分にとっては、毎日の当たり前の世界だ。
感情的になるとそんなことにも気づけない。

目の前に悲しんでいる友達がいるとしよう。
見えてる世界が違うから、「聴いてわかる」ということはない。
でも、その悲しみに寄り添うことはできる。

感情が昂ったとき
「見えてる世界が違うかもしれない」という言葉を思い出そう。
そうすれば少し気持ちが落ち着く。

そして、「どうするか」「どういう行動をとるか」、考え行動していこうと思う。


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