國分功一郎 『スピノザ 読む人の肖像』読書会レジュメ(補足)

4章 人間の本質としての意識

●『エチカ』第二部――身体と精神
・思考と存在の同一性(並行論)
→ 同じ実体を思惟と延長、別々の属性でとらえている
 ↑
カントによって否定される→ 世界は思考されるようには存在していないかもしれない

・精神の原理
人間以外の存在も精神を持っているが、人間の身体は他の存在よりもより複雑な精神を備えている。
→ 人間精神は身体の変状によって身体を認識する p174

・観念の観念
身体が変状したこと認識する ←変状によって得る観念
←その観念を飢餓状態の観念と認識する観念(観念の観念)
→ 人は身体の変状を通じて不確かな観念として「観念の観念」を獲得する p178

・自由意志の否定
→ 無数の原因による身体の変状を自らの意志による行為と感じている。 p182
(身体の変状の結果だけを意識するために、多元的に決定されたことを、意志による行為という一元的な決定と見なしてしまう)
意識=身体の変状の観念の観念 p184

・目的論批判
目的論 「物を見るための目」→ 物を見る目的を原因として、目が形成されたと考える
→ 現在の結果、使い道(=目的)に着目したために原因をとり違える
→ 目が形成されるにいたる様々な原因が考えられない
(フロイトのいう無意識と通じる)

・認識についての三区分
第一種認識
→ 身体の変状の観念の観念による混乱した認識、記号から得られる知識による認識
→ 虚偽の唯一の原因であるが、真なるものを一部含んでいる(常に誤るわけではない)

第二種認識(=理性)
→ 共通概念に基づく推論による認識(自分自身に身体から独立して得られる認識)
→ 慣習ではなく定理によって計算する、自らの身体の変状を人間身体の一般法則によって認識する。
→ 真の認識であると同時に、真と偽の区別を精神に与える

第三種認識(くわしくは第五部)
直観知 神についての妥当な観念から個物の本質の妥当な観念へ向かうもの p196

●『エチカ』第三部――欲望と意識

・コナトゥス
感情→ 身体の変状
(指示対象を持たない思惟の様態→ 観念とは区別される)

コナトゥス→ その個体が自らの存在に固執しようとする傾向性
「おのおのの物が自己の有(存在)に固執しようと努める努力(コナトゥス)はその物の現実的本質にほかならない」(第三部定理七)

→ その人間が存在していることそのものがコナトゥスの表現であり、その人の本質 p203

・欲望
コナトゥスが精神のみに関係する時→ 意志
コナトゥスが精神と身体とに関係する時→ 衝動
意識された衝動→ 欲望(←人間の本質とされる)
「欲望とは、人間の本質が、与えられたそのおのおのの変状によってあることをなすように決定されると考えられる限りにおいて、人間の本質そのものである。」(第三部諸感情の定義一)

・能動と受動
自らがある出来事や行為の妥当な原因である時、能動である。
妥当な原因→ その出来事や行為が自らの本性によって理解されるということ
能動→ 自らが自らの行為の原因になっている状態 p212
→ 我の行為が我々の力を表現している状態 p213

ねたみから生じる活発な行動
→ ねたみの対象を原因としているゆえに、活発であっても受動的

完全なる能動→ 行為者以外の力を表現していない状態
完全なる受動→ コナトゥスを完全に放棄した状態
→ どちらのあり得ない → 能動受動は度合いの問題

・感情の模倣
自分の同類と感じる者に対して、その者と似た感情を抱く。

・自己の能力の観想
他人との比較による自己の無能力の表象→ 悲しみを感じる
自己の能力の観想→ 喜びを感じる
(無能力は他との比較によって見出される→ 二つは非対称な定理)

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