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須賀田礒太郎の行進曲「皇軍」

 (この文章は2009年に書かれたものです。)

 連休を利用して、奥さんと浜名湖へ一泊旅行に行った。浜松の「楽器博物館」を訪れることが第一目標だったが、今話題の「どこまで乗っても1000円」という高速道路体験をしてみたかった事もある。
 伊勢湾岸道路から高速に入ったのだが、予想通り豊田ジャンクションあたりで渋滞に巻き込まれた。
「この先どうなるんかしらん・・・」
案じてはみたものの、岡崎インターから先はスイスイ走れ、無事浜松西インターに辿り着いた。
インターを出たとたんだ。見覚えのある顔がそこら中に貼られている。おお、城内実さん!!・・・頑張ってるなあ。前回の衆院選で郵政民営化に反対し、小泉陣営から片山さつきという刺客を送られた結果、僅差で涙を呑まれた方だ。 衆院議員当時「たけしのTVタックル」にも何度か出演されたので、ご存知の方も多いのではないか。
 実はその城内氏から昨年、私は突然メールをいただいた。何と、須賀田礒太郎(1907〜52)の行進曲「皇軍」(1940)のSPを持っておられるという。須賀田の残された音源といえば、数年前に埼玉・彩の国ホールで半世紀振りに再演された「台湾舞曲」(1943)だけだと思っていたため、私の喜びは凄まじいものだった。SPは当時のJOCK (現NHK)が放送用に作成したもので、市販品ではないためその制作枚数は十数枚程度だったと推測される。

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 行進曲「皇軍」の盤面レーベル
(SP盤=ニッチク特別製造盤 (AK-627/マトリックスno.11458~9、演奏=東京交響楽団/指揮者の表記は無いが、坂西博信)

当時は盤が何度もかけると磨り減って再生不能になるため、複数のディスクが作成された) その貴重な音源が、SP蒐集マニアでもある城内氏のもとに、同好の友人から流れて来たということだっだ。
 城内氏は東大卒業後外務省に入省し、長くドイツの日本大使館に勤められ、現地で本場の演奏も数多く耳にされている。そんな城内氏がこの「皇軍」を初めて聴いた時、「日本にもこんな素晴らしい行進曲があったのか」と感動されたという。そして須賀田礒太郎のことをもっと知るべくネットで検索をし、私のHPに辿り着かれたという事だった。
 氏から送られて来た音源を初めて聴いた時、正直なところ私はあまりピンと来なかった。
ところが、である。何度も何度も繰り替えし聴くうちに「これはただものではないぞ」と思うようになった。そう、オーケストレーションが職人芸の極みで、日本の作曲家の作品によく見られる「懲り過ぎた結果、結局何が言いたいのかサッパリ分からない」類いとは、全く次元が異なっていたのだ。シンプルな響きは強い説得力を持ち、その曲想は明解の極みだ。そして演奏がまた凄い。オケの技術は今日とは全く比較にならないはずなのだが、とにかくその音ひとつひとつに込められたパワーが凄いのだ。私はふと、信時潔の「海道東征」の2種類の録音のことを思い出した。

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  信時 潔 (1887〜1965)

1940年代の初演当時に録音されたレコードと、つい最近オーケストラ・ニッポニカにより奇跡的に再演されたライブ録音を聴き比べ、その内面に込められた「魂力」というか、そういったものがあまりにも違うのに驚いたのである。「音楽に対する心からの共感」が、その演奏の説得力にどれほど大切なものであるか、という事を改めて思い知らされた、貴重な体験であった。
 ところで「皇軍」は、開戦1年前 (昭和15年) の作品とは思えない、優雅な気品を持っている。「軍艦マーチ」や「愛国行進曲」のような勇壮な曲がラヂオから次々と流されていた当時、この「皇軍」は一体どのように国民に受け止められていたのだろう・・・想像するだけでも楽しいではないか。なおSP盤面には演奏/東京交響楽団とだけ記され指揮者の名前が無いが、残されている当時の放送記録から、どうも坂西博信がタクトを取っているようだ。
 今回浜松で城内氏のポスターを何度も見て、私は「よーし、家に帰ったら「皇軍」の演奏用浄書譜を完成させるぞ!」と、改めて自分自身に言い聞かせた。実は最近「皇軍」自筆譜の欠落部分の「譜面起こし」を友人の愛知県立芸大出身の作曲家に依頼し、音符を楽譜作成ソフトにすべて入力し、あとはレイアウトを残すのみ、となっていたのだ。しかし、楽譜を完成しても実際に演奏される当ては全くない・・・この事実が、私の制作意欲を萎えさせ、なかなか完成させられずにいた。今回、浜松で見かけた城内氏のポスターは、そんな私を叱咤激励してくれたのである。氏も間近に迫った衆院選めざして、粉骨砕身頑張っているではないか! (桜井よしこさんや福岡さんなんかも応援に来てくれてるんですね) 私も、自分の出来る事からまず頑張らなくては!! 須賀田礒太郎だって戦後、何も演奏のあてもないのに、ただただひたすら作曲に没頭していた。20歳になるかならないかの頃、結核という当時は不治の病に犯された須賀田は、作曲だけが自らの生きている「証」だったのだ。
 ところで全然違う話になり恐縮だが、いま私の息子は京都の某大学の大学院の博士課程で、「さんすう」の研究に励んでいる。
「そんなに勉強して、将来どうするの?」
ある日息子に、面白半分に聞いたことがある。息子の返事は予想外のものだった。
「世の中の誰もやらない、何の役にも立たない事をひたすら研究して、ある日研究室で朽ち果てているのが発見される、そんな一生を送りたい」
私はいたく感動した。今「皇軍」の演奏譜を作ろう、なんて思っている人物は、おそらく日本中で自分一人しかいないだろう。よーし、息子に負けないように頑張るぞぉーー!! 
そんな訳で今日、晴れて「皇軍」の演奏用浄書フルスコア・パート譜一式が完成致しました。誰か演奏してーーーー!!


(2020年追記)

私の目の黒いうちはもう絶対演奏される事はないだらう、と思っていた「皇軍」だったが、「演奏したい!」という方が昨年末に現れた。それは東広島交響楽団で、私の須賀田礒太郎HP 私の須賀田礒太郎HP http://www.medias.ne.jp/~pas/sugata.html を見て関心を持ってくださったらしい。何と葬送曲「追想」(1941)も演奏してくださるという。
「追想」はあの山本五十六元帥の国葬の際演奏された曲だ。私は須賀田の最高傑作と信じているが、この歴史的経緯から現代に演奏されるのは難しいだろうと思っていた。それを被爆地広島のオーケストラが、8月に演奏したいと申し出てくださったのだ。
私は涙が出るほど嬉しかった。
ところが、昨今の予想せざる緊迫した情勢のため、他の多くの演奏会と共に、この企画も中止になってしまった。まことに残念だが、私は来年以降必ず演奏して頂けるものと確信している。

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