見出し画像

【ソシガヤ格闘記】どうしようか、と路頭に迷うこともあるが、これも進歩(前編)

こんにちは。初めまして。
慶應義塾大学メディアデザイン研究科修士2年、
休学中の吉田凌太(よしだりょうた)です。

2月からこの取り組みを始めてもう半年。
事は進んでいるのですが、自分何やっているんだろう、と時より考える。自分のために始めた取り組みでも、本当によくわからない。面倒くさい。宮崎駿の作品制作中にはいた言葉が頭に反芻する。

その反面、節々で続けていたことが、知らぬ間に何か繋がってたりして。でもやっぱり、やること全てが「当たり前」になりすぎていて。ツンデレの自分を愛して、たまには解放させてみたい。

オトナゲナイ人が増える町を作る

取り組みを始めた当初、僕はカメラを前にこんなことを口にしていた。
大人がベンチでスマホに没頭する姿に、世の中を映していた。大人が我慢することが暗黙の了解になっているのはなぜか、と思ったものです。河合隼雄先生の「大人になること」もじっくりと追ったが、珍紛漢紛だった。
明確な事実は、オトナゲナイがきっと町を明るくするキーワードと盲目に信じていたことだけだった。

それがいつの間にか、これが世の中なんだな、という腹落ちに変わっていた。オトナゲナイなんて、という諦めが支配し、大人には大人の現状がある、子どもや家族がいるから大人げなくなんてなれない、と説得するまでに至っていた。さらに言葉を背負いすぎていたのかもしれない。何がオトナゲナイのだろうか、そもそも自分はオトナゲナイに準拠できているのだろうか、と正解がないことを考え続けていた。過程で言葉が曲解して伝わることも多く、揉めの発端になることも少なくなかった。

自分は幼少期から、言葉を見ると、そのイメージやアニメーションが浮かんでくる。大戸屋というと白い空間の中で、踊りを踊っている様子が浮かぶ。幼少期から脳内のイメージと、実質との乖離に苦悩してきた節もある。特に漢字や言葉に対しては思い入れがあり、それを軸に物事を思考するきらいがある。一時期辞書編纂者の飯間先生に倣って、辞書の写経に身を注げたこともある。当時も妙に納得する言葉があると、それを当てはめるだけでなく、自分の中の理想像にまで反映してしまう癖を感じていた。

これらが悪い形で現れると、一生言葉が消化されなくなる。突き放してもついてきて、粘着してくる。そんな苦悩と悪夢から離れることばかりに気を取られて、気づけば道から大きく外れていた。

土肥さんのお話を聞いて。

そんな折に、世田谷区の子ども子育て会議での土肥さんのお話を聞いた。土肥さんは、静岡県焼津市を起点に、子どもを中心としたまちづくりを展開されており、まちなかの図書館さんかくなどを運営している。それ以外にも、商店街で子どもたちがはしゃげる場所を作り、新しく公民館を作り、それ以外の講演に参加し、幅広く活動されている。

土肥さんの話で、自分なりに咀嚼したこと。

  1. 大人は意見を出すだけでなく、手を動かさないなら、金を出せ。

  2. 助成金や一時指定金に依存した取り組みは、長期的な取り組みに直結しない。むしろ人間関係に良くない影響を与える可能性が高い。

  3. 自分の街中でのポジションを見極めろ、でないと、無料要員になってしまう

すごく僕の心に刺さった。無意識のうちに逃げていた部分を突かれた。

街の中での自治体でのボランティアや、無料で何かお手伝いをすることが是とされている世の中で、本質的に何か影響を与えるものを作るなら、僕たちが自走できる状態を作らないと意味がない。体感として感じていることを言語化され、気持ちが昂った。言葉に執着している自分が、解放された感じがした。

今の時代まちづくりをする意味って何か

まちづくりをしよう!まちづくりは必要だ!という声が聞こえる。イベントページを見ると、まちづくりやDXのイベントが通知でおすすめされて来る。そう言った取り組みにも敬意を払う一方で、自分がまちづくりをする意味を改めて考える。

別に一人で生きていこうと思えば生きていける。境界や場所を超えて対話が可能で、すぐにものや情報を手に入れられる、そんな時代。便利な世の中で、物質的に共存している環境(まち空間)って、どの部分が本当に必要なんでしょうか。これらはきれいに区分されるものであるまい。

でも、この問いに対する思いこそ、活動意義を見いだせる。

  • その場に存在する人間の不条理な側面、最適解ではない人間の営為の積み重ね(それは計算可能なのかもしれない)を咀嚼し、重みをつけること

  • 人間の動物としての理性を取り戻し、麻痺した物質感覚をフィジカルな世界で復活できる接点を作ること

人間、という言葉が多用されているのが気になる。
ちょっと疲れた、休憩。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?