【ソシガヤ格闘記】歩く、という行為を深掘り考えてみる。
こんにちは。初めまして。
慶應義塾大学メディアデザイン研究科修士2年、
休学中の吉田凌太(よしだりょうた)です。
今日は二足歩行に関する歴史を、簡単に深ぼってみようと思う。
二足歩行の登場は人類進化における顕著なマイルストーンであり、エネルギー効率の改善、環境監視の向上、そして道具の使用能力の発展に寄与した。直立二足歩行の利点の一つは、移動時のエネルギー効率の高さを可能にしたことにある。他の霊長類、特に四足歩行を行う近縁種と比較した場合、ヒトは長距離を移動する際にかかるエネルギー消費が顕著に低い。Pontzer et al. (2009) の研究は、ヒトが狩猟や採集といった活動中に消費するエネルギーが、他の多くの霊長類と比較して極めて少ないことを明らかにした。この研究では、直立二足歩行がヒトにとっていかにエネルギー効率的な移動手段であるかが示されている。
エネルギー効率の高さにより、初期人類が広大な地域を探索し、多様な環境での生存戦略を展開できるようになった。そして初期人類は食料源を広範囲にわたって探求することが可能となり、それによって生存可能な地域を増やすことができた。加えて視野が広がり、遠くの獲物や捕食者をより早く発見することができるようになった。この視覚的利点は、初期人類が脅威を回避し、狩猟の成功率を高める上で重要な役割を果たした。手も移動手段から解放されたことで、初期人類は石器を作成し、それを使用して食物を加工することができるようになった。この技術的な進歩は、食物の取得と利用の効率化に大きく寄与し、社会的、文化的な発展の促進につながった。
二足歩行は単に物理的進化に留まらず、認知的・社会的進化にも深く関わる。エネルギー効率の高い移動は、狩猟や採集の際のグループ協力を促し、人間の社会的な複雑さを増大させた。また、歩行は創造的思考やメンタルヘルスにも良好な影響を与え、社会的相互作用を促進する重要な役割を果たす。自然環境での散歩は、都市環境と比べストレス軽減に顕著な効果を示し、歩行者に優しいデザインの公共空間は、人々を外に出し、地域社会の結束を強化する。
繰り返すが、二足歩行の登場はそれにより環境変容や能力の変容、そして社会形態の変容にまで影響を及ぼした。もっと詳しくみることもできるだろうが、こちらもキリがないので、ここまでとしよう。
大きな疑問として、二足歩行はどのような形で人類の未来も存在しうるのか、という可能性が気になる。昨日もあげた通り、「移動の効率最大化=安全に移動すること」と定義するなら、予測された自動運転による移動が最適解となりうる。ただ心理学的な観点から、その点はどうなんだろうか。歩いて地に足を触れること自体に効果があるのか、それとも社会的な接触があることに価値があるのか。二元論では語れないが、移動のあり方も根本的に変容する可能性は大いにある気がする。いくつか疑問が浮かぶ。
そもそも住んでいる環境はどうなるんだろうか?
>これまでは特定の家に住んでそこからの移動を中心に生活を設計してきた。この傾向が一気に変わるとは思わないが、特定の家に住まずに転々と移動しながらくらすノマドワーカーが増えた場合、想定は異なる。もしくは願わくば、地震や天災が起こったと想定する場合、住んでいる環境が一時的に喪失された状態となる、その場合に特定の場所に住むということも変化するのではないだろうか。その場合、移動という概念自体も大きく変容する可能性を帯びているのではないだろうか。
そもそも身体は今のままなのだろうか?
>マクルーハンがメディアの拡張と言っていたように、自分の体自体の境界線もさらに拡張される可能性を帯びている。杖が身体の拡張であるとするなら、それがさらに拡張して車椅子や移動機関に拡張されることはないだろうか。さらにいうなら、それが物理的に接地していない物質同士に適用することもできないだろうか。もし物質的に熱移動が起きずとも、あたかも起きたかのように錯覚すれば、それは身体の延長線上と言っても過言ではないのだろうか。また身体の能力自体が拡張されることで、従来頻繁に行なっていた行為が退廃する可能性がある。その考慮も必要であるかもしれない。
そもそも、に立ち返ると、いかに自分の今の生活が偶然の重なり合いで成り立っているかがわかる気がする。これらは必然性なのか、誘導された生活なのかすらわからない。ただ具体と抽象を空間軸と時間軸の4次元上に繰り返さないと、頭でっかちになりかねない。
また哲学的になってしまった。内省。
事例を調べるつもりだったのに。
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