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プロレス、強さと笑いが共存してしまう不思議空間。

強さを求める人と、笑いを求める人とが、同じ場所に集って熱狂することの出来る、カオスな空間。
プロレスって、一体なんなんだろうと常に思う。
プロレスに求めるものは人それぞれ。
強さ、男気、感動、人生観、ストーリー、ギミック、エンタメ、マスクマン、技の美しさ、試合の芸術性、テクニックの応酬、喧嘩ファイト、スポーツマンライクな試合、ノーコンテスト試合、挑発、寡黙な男、演じる能力、饒舌なマイクアピール、…。
身体能力を競う清々しい試合も好まれるけれども、反則行為もまたプロレスファンによって喜ばれるものであるし、殺伐としたセメントマッチもあれば、笑いを目的としたコミックプロレスも、プロレスの世界では隣りあって存在している。
まったく相反する方向性のものを違和感なく内包させることの出来る、プロレスという空間のふところの深さ。
あえて異種格闘技戦という体をとらなくても、プロレスの本質は、異種格闘技戦なのであると言えなくもない。


特に、日本においては、プロレスを言葉によって語る文化が根付いていたために、眼で見る映像以上の世界が、プロレスの奥に広がっていたように思う。
日本のプロレスファンが、言葉をもってプロレスというムーブメントを定義しようとするようになったのは、古舘伊知郎という人物の存在が大きかっただろう。
古舘伊知郎こそ、プロレスには思想性があるということを、プロレスファンに気づかせてくれた人物だったように思える。
そして、それに続いたのが、プロレス週刊誌の隆盛であった。
政治や哲学の世界の用語を、プロレスの世界に持ち込んだのは、古舘伊知郎という人物の功績に違いない。
言葉と、そして言葉によって語られるプロレス哲学は、ある時代からのプロレスの世界において、もっとも重要なもののひとつとなっていった。
そして、古舘伊知郎の鬼気迫る実況があればこそ、小難しい用語も違和感なく受け入れられていったのだろう。
イデオロギー闘争という言葉に発する、思想性を伴った軍団抗争こそ、日本のプロレス界に奥深い人間模様をもたらすことに貢献した。
利害関係や友人関係を越えた、プロレス哲学の違いによる人間模様が、日本のプロレス界の新たな発明となって、独自のプロレス文化を築き上げていくことともなったのである。


マットショーなんて言われ方をするアメリカのプロレスには、個人的に、そこまでふところの深さを感じることはない。
アメリカンプロレスは、プロモーターによって作られた要素の強いプロレスであるがために、プロレスファンのあいだで語られる言葉が、あまり力を持たないのかもしれない。
日本のプロレスは、一種独特の文化を有していると言えるだろう。
日本のプロレスファンは、プロモーターの意向をも跳ね除けて、男のロマンを追い求めてきたと言えるかもしれない。
ときには、政治の世界では起こすことのない暴動すらも起こして、プロレスファンは、プロレスを見る者としての美学を追求してきた。
そこが特異なのである。
日本のプロレスは、プロモーターの力もさることながら、会場に押し寄せたファンたちの情熱によって育まれた要素が大きいのだろう。
少なくとも、かつてそのような時代があったように思う。


ほかの格闘技や球技などのスポーツでは、観客が試合そのものに関わることはありえないけれども、プロレスとは、観客もまた、試合の一部となることの出来るスポーツでもある。
クレバーなレスラーとは、そんな観客たちを掌の上に乗せて転がし、試合を盛り上げていくことの出来るレスラーである。
観客を掌の上に乗せるそのやり方を間違うと、たちまち、失笑やブーイングが飛び交うことになる。
プロレスファンとはまぁ、小難しい存在である。
一方で、そんな失笑やブーイングを乗り越えた先に、内藤哲也のブレイクがあったり、YOU SUCKコールを味方につけたカート・アングルのブレイクがあったりと、プロレスファンの嗜好はまったく一筋縄ではいかない。
レスラーの掌の上に心地よく乗せられることを楽しむプロレスファンではあるけれど、反面、そんなものに全く興味を示さない職人肌のレスラーもまた、プロレスファンは大好きだ。
考えれば考えるほど、プロレスには、セオリーといったものは存在しないように思えてくる。


ときには、敗けることこそが、勝利だということが起こりうるのも、プロレスの醍醐味でもある。
たとえスリーカウントを取られたとしても、内容やストーリーで勝利するという試合も有りうるのである。
そしてそのような試合を、どのような言葉、どのようなフレーズで修飾するかが、実況アナウンサーの腕の見せ所でもあるだろう。
例としては少しズレるかもしれないが、小橋建太の復帰試合では、そんな敗け試合の勝利を象徴するような有名なフレーズが生まれている。
小橋建太がスリーカウントを取られたあとにアナウンスされた、「小橋が勝ったー、癌に勝ったー」というフレーズ。
一瞬、実況を間違えたのかと思って「え?」となるけれども、続けてねじ込まれる「癌に勝ったー」というフレーズ。
ガードを外されて無防備となったところに押し寄せてくる感動は、とてもじゃないが逆らいがたい。


強いだけでは「しょっぱい」などと評されて、ファンから敬遠されてしまうこともあるプロレスの世界。
敗けることによる勝利もあると同時に、笑いをとることによる勝利というものも、プロレスの世界には存在している。
笑いをとれることはプロレスファンにとっては、クールなかっこよさに等しい。
場の空気を支配するような当意即妙の笑い、シュールでもセンスのある笑いはクールである。
早い話が、強さについても笑いについても、そのレスラーの個性に叶っていて、カッコよく見えればなんでもありということでもある。
要は、そのレスラーのプロデュース能力に帰結されるのだろう。
プロレスから学ぶべきものは、本来、受け入れられるはずもないような個性でも、それを個性として認めさせてしまうことの出来る、セルフプロデュース能力に尽きるのかもしれない。


その競技自体の本質とは、本来かけ離れたところでも、自分の長所を最大限に生かして勝負することが出来るのが、プロレスという競技、プロレスというムーブメントなのであろう。
競技としては、まっとうな勝負ではないかもしれないけれども、そこに面白さとロマンを感じることは充分にある。
近年ではアンフェアであるとして退けられることの多いダーティな要素などもあるけれど、そんなアンフェアな要素をも魅力としていた時代を持っている競技は、過去には、プロレス以外にもあったように思う。
手積み時代の麻雀、対面勝負のポーカー、昭和の野球界、南米人のサッカー、あと個人的に言及しておきたいジョジョのスタンドバトルなど、あらゆる叡智と経験を駆使して駆け引きする姿に、驚きと感動が潜んでいる。
本来であれば、その競技を壊してしまうような技術や智慧、ときには卑怯な手口が、芸術の領域にまで達しているように思うことがある。
積み込み、すり替え、握り込み、ブラフ、フォールスカット、セカンドディール、クセ盗み、サイン盗み、ささやき戦術、シミュレーション、神の手、マリーシア、などなど、ありとあらゆる想定外の手段が勝利のために講じられるけれども、そんな世界の勝負もまた、ひとつの美学ではある。



麻雀やポーカー、野球やサッカーなど、一般的な競技の世界では、時代を経るにつれて制限がかけられてきた、そういったグレーのままの領域が、プロレスの世界においては、いまだ生き続けている。
弱さであれ、笑いであれ、その自分の個性、自分の長所を存分に生かして、レスラーとしてプロレスファンに求められる存在となることが、プロレスにおける本当の勝利なのであろう。
プロレスとは、格闘技であるというよりも、人生である。
プロレスとは一体なんなのかと考えたときの、落ち着く先の結論は、いつも決まって、そんな感想である…。


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