父の余命と形見のノート(わたしがnoteを始めた理由)。

少し前に、父を亡くした。
(少し前とは言っても、今年や去年というわけではないけれども。)
余命3ヶ月と医師に告げられて、3ヶ月とあともう少し頑張って、父は息を引き取った。
胃の入り口に、まるで花のような腫瘍が咲き広がり、どうすることも出来ない状況にまで至っていた。
よくもわるくも意地を張りとおして生きてきたという父は、いよいよどうにもならなくなる半月ほど前まで入院せずに、自宅療養で最後まで意地を張りとおした。


わたしが、医師の方から父の余命を告げられたのは、中秋の名月にあたる日のことだった。
夜空を見上げ、欠けることのなかった望月が、日に日に細くなっていくさまが、食を受け付けなくなって、日に日に瘦せ衰えていく父の姿に重なって見え、今でも中秋の名月を見上げると、その美しさに反して、もの悲しく、うら寂しい。
食が細くなっていく父が食べたいというものは、極力、手に入れられるように奔走した。
手に取った食料品の賞味期限よりも、父の余命の方が短いことに気がついて、愕然としたこともあった。


余命について正面から父に知らせることはできなかったが、山菜採りが趣味だった父が、次の春の山菜の話題をすることはなかったし、庭の小さな菜園の、来年の計画の話題をすることも、ついぞ、なかった。
桜の美しい季節が目前に近づいても、病室の窓から見える桜の木の芽吹きの話題をすることもなく、あんなに大好きだった春の訪れを、病室では、一度も話題にすることなく世を去った。
お互いにタイムリミットの存在を、ぼやかしながら病室での時間をともにした。
それが、思いやりと言えるのか、逃げだったと言われるのか、わたしにはわからないし、今さら答えを出すようなことでもないのだろうと思っている。


形見として、父が若いころに書いていたという、歌詞ノートのようなものを手渡された。
母から、そのようなノートのあることは聞いていたものの、もう捨ててしまっているだろうと伝え聞いていたものであった。
ノートはきれいな状態で、しっかりと残されていた。
父が、それまで生きてきたことの証なのかもしれない。
当時の世相のままに書かれた流行歌の歌詞のようなものなので、時季を逃してしまえば骨董品のように古めかしいが、それでもわたしにはとても愛おしいものである。


わたし自身にも若いころに書きとどめたものは、ひとつやふたつないこともない。
今の時代であったなら、発表する場所に事欠かないであろうけれども、少し前の時代までは、作品を発表する場所が得られないからと、わたしの知人たちも、次第に作品を作ることから手を引いていったものである。
人は誰しも、自分の思っていること・考えていることを、どこかの誰かに受け入れてもらいたい、気難しくて哀れな動物なのだろう。
自分もまた、そんな気難しさを手なずけることに失敗している人間である。


生きたこと、考えたこと、そのすべてが誰にも伝わらないまま、そして、どこにも残らないとしたらどうだろうか。
虚しい思いに駆られる。
幸いにも、今わたしの目の前には、まがりなりにも、思ったこと・考えたことを外部に向けて書き残しておけるツールがある。
父の時代にはなかったもの、そして、わたしの若いころにはなかったもの。
よかった。わたしは、ぎりぎり間に合った。
出会うのが遅くはなったが、わたしは、思ったこと・考えたことを、ここに書き留めておくことが出来る。
いずれ命が尽きるまで、わたしは考え、思い、そして書く。
ときに自己嫌悪のようなものとも闘いながら、それが出来なかった人たちのことも思い出しながら、書き続けなければならないのだろう。

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