今日歯磨いたっけ?
一人暮らしをはじめた日の夜、最初に思ったのはそのことだった。
わたしは、「1日の終わりの歯磨き」という、人間ならば基本毎日こなすべき業務を無意識にすませていることが多い。なので、自分が歯磨きをしたという記憶がないということがままある。
「今日、わたし歯磨いたっけ?」
誰もいないダンボールだらけの1LDKにぽつりと語りかける。もちろん、返答がかえってくることはない。
いつもはこんなとき隣で文芸誌を読んでいる母が「磨いてたよ〜」と教えてくれるのだが、そんな母はここにはいない。
母は、どこに目ついてるの?と体中を調べたくなるほど、わたしを見ていないのにわたしのことをなんでも把握していた。
わたしに背中を向けて玉ねぎを切っていたと思いきや、「ハサミ洗面所の棚の上だよ」と教えてくれたり、2時間もののサスペンスドラマを凝視しているかとおもえば「口の下にご飯粒ついてるよ」と指摘してくれたり。
「ゼッタイおかしいよ、いつ見てんの?こわい」と言うと、「母親ってそういうものだから」と納得のいかない返答がないかえってきた。
歯磨きに関しては毎日のようにしたことを忘れ、その度母に確認していた。
「ねえ今日は磨いたっけ?」
「磨いてたよ〜」
このやりとりは、もはや日課だった。
わたしは、母がいなくてはわたし自身のこともわからない。
・
一人暮らしをはじめたのは、ただ単に大学が家から遠かったからだ。
母をあの家に一人で残すことに不安や後ろめたさはあったがこればっかりは仕方ない。
というより、母は一人でもたくましく生きていけるだろうが問題はわたしである。
わたしのことを母にすべて任せていたのだ。これから一人でどうすれば良いのだろう。
とりあえず母に電話することにした。
「はい」
「あ、お母さん。わたし今日歯磨いたとおもう?」
「知らないわよそんなこと」
「あ、それはじめての返しだね。お母さんにもわたしのことで知らないことがあるとは」
お母さんは少し黙った。ページをめくる音がしたので、また暮しの手帖でも読んでいるのだろう。
「これからは、知らないことばかりになるわ。あなたのこと」
その声は淡々としていたけれど、どこか寂しそうだった。
「え?そうかなあ」
「そうよ」
「こうやって電話で報告するって」
「そうね、お願いね」
しばしの沈黙のあと、口を開いたのは母だった。
「もう一回磨けば良いと思うわ。心配なら」
「そうだね、そうか。それは考えもしなかった」
「これからは、そうやって一つ一つ自分で考えていくのよ。わかった?」
母にはたくさんの趣味があったし、一人でもそんなに寂しくはないのではないかと思っていた。いや、思いたかっただけなのかもしれない。
「わかった。あのさ、お母さん、今までさ、わたしのこと全部見てきてくれてありがとうね。こわいとか言ったけど、本当は嬉しかった」
母は何かを言いかけて、結局やめた。
「それが母親ってもんよ」といつもの常套句を最後に電話は切れた。
わたしは歯を磨きながら、穏やかな、それでいて号泣したくなるような切なさに包まれていたのだった。
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わたしが一人暮らしをしていたらこんな風になっていたとおもう、という妄想。
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