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死と向き合う。

昨日、祖父が息を引き取った。こういうことは続くというが、この春は身内も含めて、なぜだか別れが多い春だった。

祖父は99歳だった。いわゆる大往生である。
きっと「老衰」といわれる亡くなり方で、悲しいという感情も、寂しいという感情も、自分の人間性が不安になるくらいに、全く沸いてきていない。おつかれさまでした、と心から思っている。

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<そろそろ危ないかも、と聞き、兄姉と会いに行った2月>


実はおつかれさまの言葉をかけたいひとはもうひとり、いる。

父である。

死への実況中継

祖父は、昨年末から父が施設長を勤めるケアセンターに入院することになった。長く過ごした広島を離れ、大阪の施設に入ることに、最初はかなり抵抗したらしいが、徐々にそこの生活にも居心地のよさを感じていたのではないだろうか。

父はその「役職特権」を活かして、このコロナ下においても、毎晩のように祖父と晩酌し、日々を過ごしていた。

そんな中、いまから約ひと月ほど前だろうか、父から一通のメッセージが、家族のラインに送られてきた。発端は3月の祖父の99歳の誕生日である。

親父は最期の時を懸命に生きようとしている様に見えました。
もうそろそろ逝ったら?と思っていた僕ですが、99歳の誕生日は盛大にお祝いすることにしました(そこまで生きていればですが)
ということで、皆さんからの御祝いのメッセージ動画を募ります。耳が聞こえないのでビジュアルに訴えるものがいいです。
誕生日会は18日午前11時からの予定ですのでそれまでに。
では、よろしくお願いします。
僕は今、「最期の時」を語る医者として、親父の死を目前にして、身内から学ぼうとしています。
僕の本の中に書いていた中村仁一先生の言葉を覚えていますか。老人の役割には2つある。一つは「不具合と折り合いをつけながら生きて行く姿を周りに見せる」もう一つは、「自然に死んで見せて周りに安心感を与える」というものでした。
今、親父がどう死んでいくのかをちゃんと見ていきたいと思っています。
そして、僕もいつかは死んでいきます。その姿を恥ずかしくなくお前たちに見せたいと思っています。

親父の死を自分の死の糧としてしたいと思っています。ですから、出来るだけ、実況中継して、人が死んでいく過程を知ってもらいたいと思います。
こんなことは見たくないという方はどうぞ削除してください。

このラインを皮切りに(それまでも送られてきていたが)、祖父の様子が画像や動画で、ほぼ毎日送られてくるようになった。日々刻々と「衰えていく」祖父の姿を、家族全員が見ていた。

正直に言えば、最初は少し抵抗を感じていた。ぼくの妻も入っているラインだし。決して気持ちのいいものではないだろうな、と。

でもなぜだかあるときから、夜寝る前や移動中の電車の中でその動画や写真を何度も何度も見るようになった。「そうか、死を迎えるということはこういうことなのか」と感じるようになった。あのお酒の大好きな祖父が「今日はお酒をおかわりしませんでした」とか、あの食が大好きな祖父が「今日は固形物を食べられなくなりました」とか、あのおしゃべり好きな祖父が、声も出さず、力なく手をあげる、とか。そういうものを、しっかりと受け止め、ひとが死に向かっていく様を、しっかりと直視する期間になった。

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<誕生日はこれまでの思い出スライドショーになった>

誰がどう見ても、この1ヶ月の衰え方は、まさに「死に向かっている」ものだった。あの感覚をうまく言葉にすることはできないけど、死を覚悟する、という強いことばではなく、むしろ柔らかく、暖かな気持ちだった。こうやって人生は閉じられていくのだな、と。

最期にこんな体験をさせてくれた祖父(と父)に、心から感謝したい。

不思議なことだが、いまこの文章を書きながら、祖父の死を知ってから初めて涙が出てきている。そうか、もうあの声を聴くことはないんだなあと、ようやくもって実感が湧いている。

じいちゃん、ありがとう。

頭にわいてきた祖父との思い出を、少し書いておきたい。

我が家は共働きの家庭で、しかも父親は単身赴任だったため、ぼくら三兄弟(兄・姉・ぼく)は長期休みは祖父母の家に長期で預けられていた。兄姉は大阪の祖父母宅へ、ぼくはひとり広島宅へ。
思い返せば人生で初めての「一人旅」も、小学校1年生の夏休み、倉敷から広島の祖父母宅へ鈍行電車で行ったことだ。

じいちゃんはよく料理をする人だった。
ぼくが行くといつも「きよちゃん、今夜は何が食べたい、よっしゃ、おじいちゃんがつくってあげるけんね」と、毎日毎日、ぼくが好きなものしか食卓に並べないようなじいちゃんだった。毎年正月に作ってくれるゆず入りのお雑煮は絶品だった。
怒られたことといえば、お箸の使い方くらいだな。「机と平行にものをはさみなさい」となぜかそこだけはいつもご指導賜った。笑

「ひとりで家にいてもつまらんじゃろう」と、よく外に連れて行ってくれた。大抵宮島(厳島神社)なんだけど。で、外に連れ出すと、いつもぼくの写真を撮ろうとしてくれた。(めっちゃくちゃ写真好き)
当時はたくさんの人がいるなかでひとりでカメラの前に立って写真を撮られることが恥ずかしく、露骨に嫌がったりしていたな。じいちゃんはいつも「きよちゃんはあんまり外に出とうないんかね」と言っていたな〜。

父や伯父から聞く「『父』としての祖父」はいろんな側面があったみたいだけど笑、少なくとも「『じいちゃん』としての祖父」は、キュートで、ほんとにおしゃれで、料理上手で、声がでかくて、お酒が大好きで、肉も大好きで、ほんとにおもしろいじいちゃんだったな。
95歳を超えて店で歌を歌い、「すみません、他のお客様もおられますので」と怒られるじいちゃん、おれもしっかりその血を継いでるよ!笑

美しく、死ぬ。

最期にじいちゃんが99歳の誕生日会でゆっくりと語った言葉を書いておく。(こちらも動画が送られてきた)

人生は190(歳)までは生きれません。
いつかは死んでいかにゃいけん。
死ぬときに、やっぱり、美しく死にたい。
嫌な思いをせずに、あぁあの人はいい人生を送ったなあと思われるぐらいな・・(聞き取れず)。

よし、おれもひとつそういうものに向かって挑戦しよう、と。
そういう気持ちがあります。

最後しっかり挑戦し、達成したと思う。みんなのおかげだね。
いい子どもたちを持ったよ、じいちゃん。よかったね。

長い間、ほんとうにおつかれさま!
これからもずっと見守っておいておくれ〜!

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