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大九明子「勝手にふるえてろ」

なんだろう、松岡茉優かわいいよね、というための映画である。

まさに、勝手にふるえてろ、という感じである。いや、ほんと。

予告編があるが、良くも悪くも、基本的にこれですべて、ということでよろしかろう。あとは、松岡茉優のファンが実際に見て、堪能すればよい。

なんというか、青春の痛々しさなるものを、こうして客観的に戯画化する、という作品が現代において、どの程度効力を持つものか、というのは、わりと疑問だな、というのはあらためて思ったのであった。もう、こういうふうに大人が相対化してあげる、という必要はまったくなくて、そんなことしなくても今はみんな SNS によって十分に同世代同士による相対化がなされているのではないかと思う。

現代においては、そうしたメタな部分を抱えずに暮らすことはかなり難しい。お互いの情報量と認識の非対称性というのは、第三者的視点によって、容易につきくずされてしまう。なぜならば、当事者たち自身もまたそうしたメタな視点に常時接続しつつ、同時に自身もまたそうしたメタ的な主体として振る舞うことがごく一般的になっているからである。その結果として、恋愛においても、第三者的な視点によって自身の振る舞い方を決定するようになってしまっているのだ。

本作もこうした非対称性が主題であったわけだが、これの原作が出版された 2010 年あたりと現在とでは、そのへんの様式が相当変わってきているのではないかと思う。逆に言えば、2010 年代は自己相対化の時代であった、ということもできるだろう。

本作に普遍性があるとすれば、若者特有の性癖や妄想とそこから派生してくるある種の熱狂、それから社会人になりたての者たちの心もとなさや自己愛や他者への無関心の部分だろうが、それをことさら描くことに、いったいどれほどの価値があるのだろうか。それはいったい誰に向けられたメッセージなのだろう。果たしてこれを現代の同世代(24歳前後)の者たちは観るのだろうか。観たとして、そこから何か勇気のようなものを汲みとることはあるのだろうか。

といったことをぼんやりと思いながら、すっかりおっさんになってしまった私は眺めていたのだった。

せっかく妄想の部分の描写は、現実との境目をうまくボカしつつ架橋していたのだから、絶望の部分の描写ももうすこし真剣にやれば、もうすこし見どころのある作品になったかもしれない。「絶滅」なるものの表現の様式にはもうすこし深度があったのではないかと思う。現実こそがもっとも恐るべきもので、孤独というのはようするに現世界に隣接する際にもっともその強度を増すものではあるのだが、当人の視野からそれがたんなる現実認識として捉えられている、というのはだいぶ弱い気がする。まぁ、そこまで踏み込まないのが、コメディということだし、それでも十分「大人」になれるというのが、現代の温度感ということなのかもしれない。

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