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新海誠「天気の子」

まぁ、なんだろう。観てしまいはするのである。

世間では、いろいろと評論も出ているし、たしかによくできた作品であると思う。とても丁寧に練られた脚本で、私が「セカイ系」とカテゴライズするジャンルの典型を成しているし、それを死を伴う戦闘行為の高揚を排除したうえで成立させている、というのは実際、レベルが高い仕事だ。

そして、まぁ、これが私の感想のすべてである。それは私も私なりによく知っている何かだが、私には決して同意できないものである。私の個人的なサブカル史というのは、ようするにこの「セカイ系」なるものへの抗議からなりたっているというのは、世代的にいってもごく自然なことだと思うが、今回もまた、それにはまったく同意できないのだった。

セカイ系の世界は拡大せず、ただ内発的な選択によって自己完結する。というのがセカイ系の前提であり、主題であり、カタルシスの源泉であり、またそれゆえに限界でもあるのだが、私はこれに同意できたことは一度もないのである。それはかの有名なエヴァンゲリオンの最終話のときからそうなのである。

私にどうしても理解できないのは、自分自身が「悟り」に到達すると、なぜ自身の負った原罪から罪性が脱色され、自己肯定という最上の価値に転化しうるのか、という点である。そこには、きわめて傲慢な自己同一化があり、私にいわせれば、この危険な誤謬に自己が積極的に合一していることそのもの自体が罪深い。

「こんなはずじゃなかった」というのは、自分の選択の結果だというだけで贖われたりは決してしないし、人間なんて所詮そんなものではないか、という連帯感によっても薄められうる自覚ではない。まぁ、そもそも、事の軽重に関する認識を抜きにして、「こんなはずじゃなかった」と言うことが問題になるということそのものが、およそ度し難い短絡と傲慢によってのみ成立する感覚である。世界の問題は、たしかにおまえの問題でもあるのだが、同時におまえと同じだけの質量を有する他者にとっての問題でもあるのである。そして、おまえが大切に思う誰かを偏重、偏愛するというのは、ようするにおまえには世界がまったく見えていないという、ただそれだけの事実を指し示しているのであって、だとすれば、そこに横たわっているのは、絶望的に汎くて深い無知と無理解の深淵なのだ。そして、そうであれば、おまえがまっさきに絶望すべきなのは、まさに自分自身の限界なのであって、セカイの非情さやそれに対する相対的な自身のチカラのちっぽけさ、周囲の者たちの無理解などでは決してないのである。つまり、たしかにおまえは足りていないのだが、足りていないのは勇気や決断や思いきりや叫びなどでは決してなく、そんなものでは決してなく、おまえ自身の無知と無理解なのである。だから、セカイがおまえに何かを急かすときに、おまえが抗議しなければならないとすれば、おまえが「そんなこと、わかってるよ」というときに、実際には何もわかってはおらず、これから先もわかる見込みがないということのほうだし、さらにはおまえが何かを理解してようがいまいが、世界はそれ自身の自律性によっておまえの存在よりもはるか以前に完結しており、それは今後も変わらないということのほうなのだ。

もちろん、こうした誤謬を乗り越えるための規制こそがセカイ系ということなのだが、私はそれによって何かが解決されたと感じたことが、つまりカタルシスを感じたことが残念ながらないのである。犠牲と意志、無理解や無関心、その副作用としての時間的空間的人格的唯一性、こうしたものはセカイ系を構成する基礎的な材料だが、ここで重要なのはその規制によって得られる何かがあるのか、ということであるし、であれば、私はようするにそこから、私のために必要な何かを得ることがどうしてもできないのであって、つまるところ、私にとってセカイ系なる規制にはまったく意味も内容もないのである。

私にはどうしても「世界に関与する決断をくださんとする主体の逡巡」なるものが主題になるとは思えない。私にとって問題なのは、つまり決断すべきなのは「死ぬべきか否か」あるいはある要求に自己を全面的に合一させて、それによって自己(の主体性)を消し去るべきか(ようするに、それは死である)、というあくまでもハムレット式の主題なのである。つまり、いずれにせよ、事がなされたあとに、あとからそれをふりかえって、「これでよかったんだ」とか「あのときああしていれば」などと反芻するような主体は、物語後という場にあっては残っていないのである。私にいわせれば、そのような問題だけが、真に自己と世界とを天秤にかけうるに足る主題なのであって、日常に還元されるようなものは決してそうではない。そういう意味で、セカイ系というのは、そもそも主題として成立していないのである。

だが、私は残念なことにセカイ系とともに歳をとってしまった世代に属しているのであった。そして、「天気の子」はこうしたセカイ系に対する深い理解に基づいて、とても注意深く設計された秀逸なストーリーである。文字どおり、死を伴わないセカイ系の最高峰だといってよい作品であろう。端々で物語構成上、ぬるいと感じるような選択があるわけだが、それは概ね、この死を伴わない、という制約から生じている。この制約を入れたのは、新海誠の作家性の根源のひとつだから、ということでもあろうし、マーケティング的な側面もあるだろう。セカイの危機を戦いの論理に還元しないで描くのは難しいのだが、そうしないと世代的、性別的、文化的な広がりを欠いてしまうのである。前作、「君の名は。」でもこの点は重要なマーケティング上の制約であったし、今後もこれは変わらないだろう。ふしぶしで天気の価値なるものが強調されたり、実際に異常気象なるモチーフによって危機の度合いが語られたりするのはこのためだ。

新海誠には家族と恋人のモチーフがないので、守るものがない。彼にとって、そうした側にいるものたちは、基本的にはコンパニオンの域をでないのである。そうした意味で、今後もこの規模の興業が可能な主題には、こうしたセカイ系のモチーフを何らかのかたちで取り入れていかざるをえないわけだが、これは致し方のないことだろう。なぜなら、彼は一貫して慎重な手付きで死を拒否してきており、それがゆえに真正の悲劇の経路は閉じられているからだ。だから、私としては、今後もこうして彼の作品が出てくるたびにこう言うしかないだろう。世界と釣り合うのは、ただ自分の死だけであると。

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そうしたセカイ系の限界についてのお話はともかくとして、絵ヅラのほうではあるが、毎度のことながら、私の東京ぐらし時代の地点と被っていて、そういう意味では感慨深いものがあるのだった。とくに、そこを引き払って、こうして京都に移ってきている身としては、(セカイ系という主題に微塵も共感できなかったのでなおさら)自分の東京への気分というのを再確認する時間となったのである。

今回は、新宿を中心とした一帯から山手線圏内一帯に取材範囲が広げられている。違和感があるとすれば、皇居、丸の内界隈がわりと意図的に避けられているように見えた、というあたりであろうか。過去作との関連で避けたのかもしれない、など思ったりもするがよくわからない。

ほかは、まぁ、なんというか過度な美化であるなぁ、とあらためて思ったのであった。とくに、美的な価値を持った場でない場景をひじょうに強く強調していたのは、たしょう鼻につくほどであった。代々木の廃ビルや御苑、渋谷の交差点など、あからさまにそれっぽい場所の盛り方はむしろ抑えめであったといえるだろう。雨粒がアスファルトに落ちる描写などは文句なく素晴らしかったが(ずいぶんとまぁ、工数をかけたもんだ)、余計なお世話感がひじょうに強かったのも事実である。

個人的には、そうしたものも含めて、置いてきたものから場が構成されている、という印象であった。もうそこに何かがあると期待しはしないし、その期待に基づいた美化も、その成分を取り除いた日常の絵ヅラなるものが、だいたい記憶のうちにあるので、「まぁ、そんなに盛らんでもええんちゃう?」という感じにしかならないのであった。ようするに歳をとったということだと思う。次は皇居界隈、とくに半蔵門以北と谷根千、東大界隈あたりでどうでしょうかね、というくらいだろうか。

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あと、RADWIMPS を最初っからずっと流しておくべきだった、とは思う。ワンパターンだと言われようがなんだろうが、ミュージックビデオなる形式は、こうしたセカイ系の鼻白みを勢いで押しきるには有用なツールであろう。かなり意識的に、今回はそのへんの構成が調整されているわけだが、私は「君の名は。」ははじめから泣いていたし、それでよかったのである。古層にふれる、というのはそういうことなわけだが、セカイ系単体ではやはりそこまでの力はなく、世代に閉じたモチーフであるように思われる。これもまた今回再確認したことではあろう。

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