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白村江の戦いとは?古代の東アジア大戦を簡単に解説

白村江はくそんこうの戦いとは、飛鳥時代に起こった、百済くだら・日本の連合軍と、とう新羅しらぎの連合軍との戦争です。

この記事では、戦争の内容、原因、戦後の状況を簡単に解説していきます。

白村江の戦いとは

白村江の戦いとは、663年の飛鳥時代に起こった、百済・日本の連合軍と、唐・新羅の連合軍との戦争です。

白村江とは、現在の韓国にある錦江きんこう河口あたりです。

赤い丸の部分が錦江河口あたり

戦いが起こった原因

直接の原因は、唐・新羅連合軍に制圧された百済を復興させるべく、百済と日本が協力したことです。

飛鳥時代の朝鮮半島は、高句麗こうくり新羅しらぎ百済くだらの三国が争っていました。

655年に新羅は、百済と高句麗、靺鞨まつかつという民族の連合軍に攻められていました。

新羅は、唐に救援を要請し、受け入れた唐は高句麗を攻撃して百済の注意を引きつけます。

658年、659年にも百済連合軍が新羅に侵攻し、新羅は唐に協力の要請をしています。

唐は直接百済に攻め込まず、高句麗を攻撃して牽制したとのことです。

高句麗を狙い続けた理由としては、唐は高句麗を征討するのが目的にあり、過去に失敗した経験があるからでしょう。

高句麗の征討をスムーズに行うためにも、新羅の要請を受け入れて、百済を滅ぼす方向に向かっていきます。

660年、新羅・唐の連合軍が百済を制圧するために出兵します。

百済王都は包囲され、当時の百済の王である義慈王ぎじおうが投降し、完全ではないが百済は滅びました。

義慈王、皇子、大臣たちは唐の首都である長安に連行されました。

その後は、鬼室福信きしつふくしんという人物を中心とした遺臣いしんたちが、百済復興のために立ち上がります。

福信は、百済の王族や豪族など、出自は謎とされているが、高い立場であったと考えられます。

戦闘指揮能力に長けており、侵攻された諸城を次々に取り戻していきました。

そして百済遺臣たちは、日本に軍事要請を送り、白村江の戦いに向かっていきます。

戦いの詳細

戦いの結果は、百済・日本の敗北であり、白村江の戦い自体は2日間で終了しました。

過去に百済と日本との友好関係を築くために、百済から豊璋ほうしょうという皇子を人質として日本に滞在させていました。

662年に、豊璋は日本の兵に護衛されて百済に帰国します。

豊璋は、百済復興の要である周留城するじょうに入り、鬼室福信と豊璋の2人が百済軍の主柱となります。

王族であり、精神的な支えとなる豊璋と、戦闘指揮を支える福信という軍の構造です。

だが、豊璋は周留城から避城という城に移ろうと言い出します。

食料の確保という考えがあるが、豊璋が個人的に周留城の居心地が悪かったという説もあります。

しかし、避城の近くまで新羅軍が侵攻していたので、失敗に終わり周留城に戻ることになりました。

これをきっかけに、豊璋と福信の関係が悪化し、最終的に福信は豊璋に殺害されます。

原因としては、豊璋のプライドが関係していたと思われます。

王族である豊璋がいることで、精神的な士気を高める存在であったが、豊璋は王の後継者になれるほどの地位ではなかったです。

周りからは期待されてなかったことを、肌で感じていたと思われます。

福信は軍事指揮をテキパキこなし、避城に移ることにも失敗したことで、プライドが傷ついた可能性もあります。

その結果、福信を腹正しく思い、殺害を決行しました。

福信という支柱の1人が亡くなったことで、百済軍の士気が一気に下がったことでしょう。

その報告を聞き、唐・新羅軍は一気に周留城を陥落させようと動きます。

663年に日本は、2万7千もの援軍を送りました。

豊璋は日本軍を迎えて饗応きょうおうしたいといい出し、結果的に城を出てしまいました。

豊璋までもいなくなり、百済軍の士気は更に下がったはずです。

日本軍は白村江である錦江を通って周留城に向かおうとしましたが、先読みした唐軍が待ち構えていました。

大国である唐の軍事技術力、日本軍の作戦内容の甘さもあり、百済・日本軍は敗北しました。

その後の動き

戦後の動きとしては、百済が滅亡し、日本は唐の侵攻を警戒して防衛政策を行います。

唐は旧百済の領土を、百済の王族を起用して安定化を図ります。

これで唐は、当初の目的であった高句麗の制圧に移り、白村江の戦いから5年後の668年に高句麗は滅びました。

そして次は、唐と新羅が争うこととなり、数年争い続け、676年に新羅は朝鮮半島を統一します。

日本は唐の侵攻を警戒し、朝鮮半島から1番近い位置にある、九州沿岸を中心に城や防人さきもりという兵士を配置しました。

当時の日本の中心地だった飛鳥(現:奈良県明日香村)から、近江の大津宮(現:佐賀県大津市)に移す対策もします。

琵琶湖と山に囲まれた天然の要塞であり、水上の交通も利用できます。

最終的に唐は攻めて来なかったが、後の律令制実現のための力になりました。

まとめ

白村江はくそんこうの戦いとは、663年の飛鳥時代に起こった、百済くだら・日本の連合軍と、とう新羅しらぎの連合軍との戦争です

・起こった原因は、唐・新羅連合軍に制圧された百済を復興させるべく、百済と日本が協力したことです

・戦いの結果は、百済・日本の敗北であり、白村江の戦い自体は2日間で終了しました

・戦後、日本は唐の侵攻を警戒して防衛政策を行います

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