神様はサイコロをふるんだろうか

神様はサイコロをふるんだろうか。

よく道端でゴミを拾ったり、落とし物を預かったりする人たちを見かけることがある。そういう人たちになぜ?と聞くとしばしば「運が舞い込んでくるかもしれないから」と言われる。

運気、それは善意からくるものなのか。

競馬や競輪などのギャンブルで運を祈る人たち、彼らにとっての運とは何だろうか。

運気、それは神様のお告げのようなものなのか。

お守りの結果で大吉を当てた人たち、それらにとっての運気とは、その大吉を当てたことによる満足感なのだろうか。

「運」という言葉は非常に曖昧で、わかりにくく、それでいて日常によく出てくる言葉である。運という言葉を用いて会話をした時、双方においての運の理解は必ずしも一致しない。


ここで一つ面白い現象を紹介しよう「カオス理論」だ。

二重振り子の先端の軌跡は一見簡単そうに見えるが、実はとても複雑に動き、予測することが出来ない。このカオスさは3重となればさらに増大する。力を加えたのは最初お守りを持っていた指だけである(重力は除いておく)

運と呼ばれる現象はいくつかのパターンに分類しうると思うが、その中でもこのカオス理論のような運については。運そのものの具体を追求できる気がする。

この議論では対象となる人物に感情があることを前提とする。

かりにあなたが道端に落ちているゴミを拾った場合、そこに関わる人物はゴミを捨てた張本人、周りの傍観者、ゴミ処理の対応者と三つに別れる。周りの傍観者のなかでその行動に感銘を受けた人が自分もと思いゴミ拾いの活動を始める。ある日スーパーに買い物に行った時に、サービスをしてくれた店員がいた。彼はゴミ拾い活動を通じてサービス精神を学んだ人のうちの一人だった。あなたは、「運がいいな」と思った。

この一連の流れの中で出てくる運とは、「いわば自分の何気ない行動が、他人に影響を与えるというプロセスの連鎖が、思わぬ結果を産む可能性があるということです、」

こう言ったことをよくやり、そしてそれをみた人が素晴らしいと思っている、そんな人のことを一般には「徳が高い」と言います。

この徳の高さから得ることができる幸運というのは、「日々の活動の結果からもたらされるその人の社会的評価、人間的評価からくる好感度」に依存するのですくなからず、その人に何かしてあげたいと思う人が多いということだと思います。

徳をあげるための行動として、ゴミ拾いであったり、人助けみたいなことは上がってくると思います。それをみた他人がその人にいい印象をもち、そしてその人のために何かをしたいと思う。これが一連のプロセスとなります。

以上が、徳を起点として発生する運についての見方でした。

そのほかの運の見方も考えてみよう音は思いますが、とりあえず今日はここまでということで。


さようなら


Kiyoshi Practice

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