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大学における学びを考える:留学生と日本人学生の「雑談」をどう設計するか

私は、ESD(持続可能な開発のための教育)を地域で進める知の拠点(Regional experties on ESD:RCE)の一つ、RCE Hyogo-Kobeの事務局長を仰せつかっている。国連大学に認証されているRCEは今175箇所あり、昨日はそのAsia-Pacificエリアのweb会議が開かれていた。

留学生が混ざったクラスで感じてきた違和感
最近、中国からの留学生が増えている。ゼミや授業などで日本語でバーっと議論した後、ふと、「今の議論はきちんと理解してもらえているだろうか?」と悩むことがよくある。そこで、留学生に「どう?ついてこれてる?」と聞くと「大丈夫です」と答えてくれる。ただ、時々「せっかく日本にきたのに互いに理解を深めながら学べている感じがしない」ともどかしそうにしていた。学術的な用語や概念をめぐる対話は、日本人であろうが留学生であろうが、初めて聞くものであればわかりにくさは同じである。しかしながら、その概念を説明しようとした時の「雑談」が、日本人と留学生が混ざる集団における「理解のずれ」を作りだしているようにも思う。

思わず留学生に質問したくなる場面
ESDに関する授業で、上述した国際会議で仕入れたネタを使うことにし、世界のRCEの拠点の図(トップにアップしている写真)をスライドで共有していた。特に意図もなく、これだけの地域がESDを推進しているんですよー、ということを伝えるためだけに利用したのだが、ZOOM越しに、留学生や日本人学生の数名がこの図を真剣にのぞき込んでいるのに気がついた。
 その時に、あ、確かに、留学生にとって身近な地域名が書かれているのかもしれないと思い、すぐに「Tさんの住んでいる地域はここに書いてありますか?」と尋ねた。そうすると、「登録はされていないけど、近くの地域はこれです」と教えてくれた。そこはまだ聞いたことのない地名だった(RCE Kunming)。そのやりとりを続けながら、RCEが「国」の代表としてではなく、「それぞれの地域」レベルで認証されていること、またその意義について話を進めることができた。その瞬間、ふむふむと皆が理解してくれている様子を感じとった。と同時に、私は、RCEは世界の拠点と言いながら、日本の、自分たちの地域ばかり意識していたことに気がついた。

参加者にとって「等距離」な雑談
上述した国際会議には数名の学生が参加してくれていた。その学生に感想を聞いていると、「アフリカではコロナ禍でどのように『手洗い』を推奨するか、が課題の一つであることに驚きました」と答えてくれた。それをめぐって、「手洗い」の文化について雑談した。各学生、世界での留学経験を引き合いにだし、あの国の水環境はどうだったこうだったと話をし、日本の神社における「手水」が話題になった。中国ではどうなんだろう?という疑問が湧いてきて、みな、留学生の話を夢中になって聞いていた。(結局、そんなのないということなのですが)。それらの議論をふまえて、周りの人の目を気にしたり、習慣として身についているから特に手が汚れていると感じなくても手を洗うこと、それは昨今のコロナ騒ぎで手をしょっちゅう消毒しなければ気が済まない子どもや大人がいることへの疑問につながった。

超我(感じなければならない仕方)と自我(実際に感ずる仕方)
クルト・レヴィン『社会的葛藤の解決』

それらをふまえ、私はレヴィンの「超我」と「自我」に関する記述を思い出した。

雑談を仕掛ける技術を身につける
集団における対話の場において、対話のテーマが参加者にとって等距離であるかどうか、をよく考える。これはワークショップでとても肝になることなのだが、「今日はワークショップをします!」という時だけこのことを意識しても、ちっとも洗練されない。日常的な学びの場で、参加者が等距離で雑談できるテーマを絡めていく術を身につけていくことが、あるときのワークショップのスキルとして現われてくる。今回は、国内外の人々が集まる場の雑談のネタとして、国際規模で展開しているESDは使いやすいなと改めて感じた。さて、来週の授業ではどんな雑談をしますかね。

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