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神を持たない人間に罪だけがのしかかる時ー「かむやらい」のこと全部言うnote

お久しぶりのnote更新!日々一生懸命稽古中です!

今回出演するカムカムミニキーナ『かむやらい』は、日本神話や歴史をベースした壮大なファンタジー。物語の内容やテーマがほんっとーうに面白いので、ぜひぜひ知ってもらいたいなってのと、作・演出の松村さんがネタバレとかあんま気にしなくていいよって言ってくださってたので、全部言うnoteを書いてみようと思います。

本当に全部言うのでネタバレNGな人はこの記事をそっ閉じしてください!谷川も怒られないかちょっと不安になりながら書いてます笑。

さて。

まず、タイトルの「かむやらい」について。「神」を「やらう」(=追い払う、追い出すという意味の古語)で「かむやらい」。日本神話で、スサノオノミコトが高天原から追放された事件を指す言葉です。今回の作品では、スサノオに限定せず、広く"神様を追放する業"を意味する言葉として扱われています。

舞台はとある王国の都。初代大王(おおきみ)であるミッキーが王朝を開いてから半世紀、現在はその息子のイクマイが統治しています。王朝開闢半世紀に合わせて、王国では大規模な祭典が開かれることになりました。その祭典の目玉は、建国の歴史を再現する舞楽。イクマイが、父ミッキーを含む建国四兄弟が辿った足跡についてインタビューを受けるところから物語はスタートします。

兄弟たちは遠く離れた地から海を渡って旅をし、各地で凶悪な"土蜘蛛"を退治し、現在の都に国を作った。幼いイクマイは、ミッキーから旅の思い出話を聞かされて育ちました。

しかしそれは、あくまで勝者の語る歴史物語。退治された土蜘蛛とはすなわち、兄弟たちが滅ぼした国の神と、長と、民たちのことです。
彼らは旅の過程で、3つの国を蹂躙します。それらの国は、巫女の女王(作中ではトベと呼ばれています)が治める国で、それぞれに独自の信仰と文化を持っていました。国を征服することと、神を奪い追放することを重ね、兄弟たちのやってきたことを「かむやらい」と呼んでいるのです。

祭典と建国史の舞楽の目的とは、異なる文化を持っていた国々が一つに統一されたことと、大王による統治の根拠を象徴的に示すことです。そこでは滅ぼされた側の物語はなかったことにされてしまいます。

今はなき国々の巫女王・トベたちは、怨念となってヒナガという登場人物に率いられ、王宮にテロを仕掛けます。王宮の関係者に紛れ込んだ彼女たちは、祭典の会場を爆破し、イクマイを誘拐し、滅ぼされた3つの国の物語を語って聞かせます。

3人の巫女王・トベたちの物語とは?そして建国の祭典の行方は!

というお話です。おもしろそうじゃない???
ここからさらに、私自身の解釈もねじ込みつつ作品の根幹部分に触れていきます。noteそっ閉じポイントその2です。

さてさて。

ヒナガとテロリストとなった巫女王たちは、イクマイを「流域」と呼ばれる場所へと連れ去ります。「流域」とはざっくり言うと、神のいない場所、あるいは信じるべきものを持っていない状態を指す、『かむやらい』オリジナル概念です。地理用語で流域ってありますが関連はないです。神や居場所を奪われた人や、元々それらを持たない人の場所であり、兄弟に追放されたトベたちも「流域」にたどり着き、ヒナガに拾われます。

ヒナガという登場人物は、流域をさすらい、人々に癒しの歌を届ける女神です。ん?流域って神のいない場所なんじゃないの?と思いましたよねすみません。後述します。
ヒナガはイクマイに、流域こそが本当の世界だと言います。これは一体どういうことなのでしょうか。

戯曲の主要なテーマとして、「神とは何か」という問いがあります。

3つの国の神の在り方、神と巫女・民との関わり方はそれぞれに個性的です。一つ目のナグサトベの国では、森と大地を神とし巫女はその声を聞き取ります。二つ目のニシキトベの国では、蚕の神は大部分の民衆へは隠されており、巫女と民は神に奉仕する存在です。三つ目のニキトベの国では、巫女はある事情から神に見捨てられています。神との関係性が切れてしまったニキトベは、必死に自分の生き方を自問自答します。

(ニキトベは見捨てられていますが)これら3つの神に共通するのは、人々に生きる指針を与える神であるということです。神を信じることで、人生に目的が与えられ、どのように生きていくべきかが分かるのです。
「流域」-神のいない世界とはつまり、何の意味も目的もなくただただ時間だけが過ぎていく、成り行きだけの世界。ヒナガは、この流域という"本当の世界"に耐えられない者達が、何かを必死で信じることによって築かれる"砦"が神様だ、という風に語っています。

トベの国々の神に対してヒナガは、流域の人々を歌によって癒しますが、その癒しはあくまでいっときのものであって、彼らに流域から脱することができるような、何か信ずるべきものを与えるわけではないのです。彼女が「女神」と呼ばれるセリフがちびっとだけありますが、トベの治める国の神とはまた違った存在です。

さらに戯曲後半、ニキトベの国あたりから、トビという登場人物が登場します。黄金の翼を持つ鳥人ですが、多くの人の目からはただの鳥にしか見えません。罪を自覚し自問自答を繰り返す人の元に現れ、その時トビは鳥人としてその人と会話をします。トビは、何か超越的な存在から派遣されていることを示唆するセリフを言いますが、それがどのようなものなのか劇中では明かされません。神と言ってもいいかもしれませんが、トベの国々の神とも、ヒナガとも、異質の存在でしょう。

このように、「かむやらい」には様々な神の在り方が描かれますが、故郷を捨てた流れ者の四兄弟たちは、彼らの神を持ちません。

「かむやらい」は、様々な神話や伝承からエピソードがひかれてきているのですが、骨格となっているのは神武東征-神武天皇が九州から旅をして初代天皇として日本を治めるようになるまでの説話-です。日本書紀に、建国の際に女王が治める国が3つありそれらを退治したと、本当にそれだけ書かれてあって、後は他の資料もほとんど残っていないというところから、松村さんが想像を膨らませて戯曲を書いたそうです。

読み合わせの際に、この辺りの歴史について丁寧に解説していただいたのですが、この神武東征は、旅に出た動機がよく分かっていないのだそうです。

「かむやらい」の四兄弟たちも、元々居辛さを感じていたこともありますが、予期せぬトラブルと勢いで故郷を捨てて旅に出ます。
成り行きで、たどり着いた国々と戦うことになってしまい、戦いの中で兄弟たちは命を落としていき、末っ子だったミッキーは流れ流れて初代大王となります。蹂躙した国で彼は「なぜこんなことを?」と問われます。しかしミッキーはその質問に答えることはできません。そこに何か悪意、あるいは大義があったわけではなかったのです。

では、その成り行きを作ったのは誰か?という話ですが、流れ者の四兄弟の周りにはどんどん流れ者が集まってきます。物語が進む中で、遠い大陸から国を追われてやってきた師弟、出稼ぎの青年や、諸国を旅してきた食客が一行に加わっていきます。彼らは各々の目論みによって、兄弟たちの旅を手助けします。
つまり兄弟たち旅の一行は、流域の住人なのです。流れ者たちの耐えられなさが絡まり合い、その集合体に、偶然前にいたミッキーが押し出されるように、彼は旅を続け、国々を滅ぼし、最後には王になるのです。

こうして、神を持たない人間に、成り行きで、罪だけがのしかかっていきます。旅の終着地でミッキーはいったいどうなってしまうのでしょうか?

それを考える上で重要なのが、"歌"です。
『かむやらい』では、"歌"と"言葉"が非常におもしろい形で対置されています。ってことについて書いていきたいんですが、ちょっと、だいぶ長くなってきちゃったので第二弾に…しようかな…書けるかな…
歌と言葉は、私が演じる役にも絡んでくるので頑張りたいとは思ってます!乞うご期待!

『かむやらい』観にきてね〜〜〜🐍
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1/26 追記 第二弾書きました!読んで〜🐍



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