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国を作る言葉、過去を弔う歌ー『かむやらい』のこと全部言うnote2

こんにちは!この記事を開いてくださってありがとうございます。『かむやらい』のこと全部言うnote第二弾です。初日あける前に出せてよかった…。
座組みの皆さんがnoteすごい褒めてくださって嬉しかったので頑張れちゃいました🐘

このnoteは↑の記事の続きです。第一弾読んでから読んだ方が分かり良いかと思います〜。

〜前回までのあらすじ〜
二代目の大王(おおきみ)・イクマイが語る、父王ミッキーたち四兄弟の建国の歴史。故郷を飛び出して旅に出た四兄弟は、巫女の女王が治めていた3つの国を滅ぼした。戦いの最中で兄達を失い、一人残った末っ子のミッキーは、旅の終着地でいったいどうなってしまうのか?ミッキーの行く末を読み解くキーワードは、「歌」と「言葉」!

以降、激ネタバレ注意です!自分だけの解釈で作品を楽しみたいという方も引き返した方が良いかもです。

大丈夫ですか?

さて!

3つ目の国、ニキトベという巫女王が治める国を滅ぼした末っ子ミッキーは、その地で旅を終わらせると決め、ニキトベを后として迎え、王となって新たな国を築きます。このニキとミッキーの間に生まれたのがイクマイです。イクマイは、一切言葉を話すことのできない子どもでした。ニキはイクマイが生まれてしばらく後に王宮を出奔し、追手が放った火の中で命を落とします。

そしてある日突然、イクマイは王宮から姿を消します。
部下たちの必死の捜索の結果、王宮から遠く離れた所で発見された彼は、不思議なことに言葉を話せるようになっていました。さらに、ある歌を覚えて帰ってきます。
王宮に帰ってきたイクマイは、父ミッキーにその歌を披露します。するとミッキーはその歌にひどく心を乱され、なんとその2日後に亡くなってしまうのです。

イクマイが歌った歌とは一体なんなのでしょうか?ミッキーはなぜ、命を落とすほどイクマイの歌に動揺したのでしょうか?また、イクマイはなぜ言葉を話せるようになったのでしょうか?

まず、イクマイが覚えてきた歌とは、流域の女神・ヒナガの癒しの歌です。

イクマイは、ある日王宮に現れた黄金の鳥を追いかけているうちに神隠しに合います(*1)。王宮を飛び出した幼いイクマイの元にヒナガが現れ、彼を流域へと連れ去ります。谷川はこの、神隠しにあっていた時の幼いイクマイを演じます。

幼いイクマイは流域で、ヒナガと、父たちが滅ぼした国の巫女王たちと、母であるニキトベと出逢います。流域とは神のいない世界を指す『かむやらい』オリジナル概念であると第一弾noteに書きましたが、死んだはずの彼女たちが居るということから、流域は死後の世界のようにも見ることができます(*2)。

イクマイは流域で生まれて初めて言葉を発し、ヒナガが歌う癒しの歌を教わります。ヒナガはイクマイに、我々(ヒナガとイクマイ)には、歌で人々を癒す”使命”があるのだと語りかけます。使命を知り、歌を会得したイクマイは王宮に帰ってきます。

しかし、父の死により二代目の大王となり、成長したイクマイは、歌も、ヒナガや巫女王たちと流域で出会ったことも忘れてしまっています。建国記念祭典にテロを仕掛けたヒナガ達に誘拐されたとき、イクマイは彼女たちのことが分かりませんでした。

イクマイはなぜ歌を忘れてしまったのか。終盤のあるシーンで「帝王たるものの言葉を徹底的に叩き込まれた私は、いつしか歌を忘れ、過去を遠ざけ、何もかもを言葉の整うままに委ねていった。やがて言葉は堅牢な王国を築いていった。」というセリフがあります。大王としての責務を果たすことに忙殺されるうちに、子どもの頃の思い出は薄れてしまった、という意味にも取れますが、このセリフでは、「歌」という概念が過去と結び付けられており、さらには言葉の対極にあるもののように置かれています。

言葉は、ある事象を名付け、定義し、枠を与えるものです。しかし、現実は常に枠からはみ出した余剰を持っているし、またその枠は真実からかけ離れていくこともままあるでしょう。

第一弾noteに、建国の祭典・建国の歴史を再現する舞楽(*3)の目的とは、異なる文化を持っていた国々が一つに統一されたことと、大王による統治の根拠を象徴的に示すことと書きましたが、それらはまさに「言葉」によって、過去に都合の良い枠を与えようとする営みなのです。そこからはみ出すものはどこかへ追いやられてしまいます。

劇中で「くかたち」という技が何度も使われますすが、これも「言葉」の領域にあるものだと考えられます。くかたちとは、古代の日本で行われていた裁判で、熱湯に手を入れて火傷しなかったら無罪という、なんとも無茶苦茶な儀式ですが、『かむやらい』では、目の前にあるものをパッと消し去る手品として出てきます。この「くかたち」を操るタネコという登場人物は、兄弟たちが旅に出るきっかけを作った一人であり、立ち寄った国々で旅の障害となるものをバンバン消し去っていきます。

しかし、くかたちは所詮手品であり、この世からその存在を完全に抹消することはできません。言葉の枠からはみ出したものが無かったことになるわけではないように、くかたちで消したものも、どこか見えない所に遠ざけられるだけなのです。

対して「歌」は、『かむやらい』においては、言葉の枠の外にある何かを掬い上げるものとして描かれているんじゃないかなと私は思っています。
ヒナガとイクマイの歌は、聴く者に対して、過去や、言葉によって捨象されてしまう全てを思い起こさせるものとして機能する。その結果、癒される人もいるし、ミッキーは狂ってしまった。もしかしたら歌を聴いても何も感じない人もいるかもしれません。

テロリストの巫女王達の目的は、イクマイが忘れてしまった「歌」を思い出させることでした。それはつまり、建国の祭典によって忘れ去られようとしていた、彼女たちの国々が持っていた豊かな物語を無かったことにしてほしくないという切実な願いです。

再びヒナガと巫女王たちと共に流域を旅し、四兄弟たちが蹂躙した国の物語と、自らが幼い頃に流域を訪れた過去を見届けた末に、イクマイは歌を思い出し、王宮に戻されます。
王宮にて彼を待ち受ける運命やいかに…?!

それはぜひ、劇場で見届けてください。

今回のnoteでは、歌と言葉についてつらつらと書いてきたわけですが、『かむやらい』は歌(=善)vs言葉(=悪)みたいな単純な構造になっているわけではなくて、言葉は、私たちの人生に必要なものとして見ることもできます。

例えば私たちが目の前にある石を石と呼ぶとき、本当は世界中にある無数の石たちはそれぞれに色も大きさも形も違って、それぞれが唯一無二なのにも関わらず、それを無視しています。でも一つ一つの"石"それ自体と言葉を介さず向き合うことは私たちには到底できません。その個性を無視してとりあえずそれを石と呼んでみることなしには、世界のあまりに膨大な情報量の中で立ち尽くすことしかできないのです。

第一弾noteで、神様を信じることによって人は生きる目的を得ることができると書きました。本来は成り行きでしかない人生に、確かな指針を作り出すのが神であるとするならば、それもまた「言葉」による営みだと言えるでしょう。また、幼いイクマイが流域に来て言葉を話せるようになったのは、流域で使命を自覚したことによって、人生に枠が与えられたからなんじゃないかと谷川は考えています。それまで彼は、石の個性を無視できず、世界の中で立ち尽くすことしかできない子どもだったんだと思います。

言葉にはそういう風に、混沌とした現実に秩序を与え、新たな世界を作り出す力があるのです。人生を前に進めていくには言葉が必要で、でも言葉が何かを切り捨てたり置き去りにしていったりすることで、そこに業が絡みついていくこともある。『かむやらい』はその業とがしっと向き合っている作品だな〜と思うのです。

私はこうして『かむやらい』について書き連ねてきたわけですけど、どれだけ書いても書いても、舞台上で起こること全てを汲み尽くすことはできません。言葉でもって語る以上必ず、その枠の外に大切な何かを追いやってしまっています。なので、"全部言うnote"とは言いましても、皆さんが作品を観て受け取るものはきっと、もっともっと膨大で、豊かなものであるはずです。

てなわけで!『かむやらい』見にきてくれたら嬉しい〜です〜!ご予約・公演詳細はこちらから↓

公演について分からないことがありましたらお気軽にご連絡くださいね!

〜注釈〜

*1 この黄金の鳥とは、第一弾noteに登場したトビです。イクマイに対してはトビは鳥人としてではなく鳥として現れるようです。

*2 神のいない世界と死後の世界が重なり合うように描かれているのは、谷川的戯曲の超面白ポイントです。人が生きていくことって一体どういうことなのかってのも『かむやらい』の重要なテーマだなと思っています。また、神様の話なので、罪と罰も戯曲のキーワードです。「バチあたり」というセリフがよく出てきます。

*3 舞楽の制作と上演を担当する「サルメ」という役職のキャラクターが登場します。サルメ(猿女)は古代の日本で実際に設置されていた、祭典で神楽を奉納する女官のことです。『かむやらい』でも近しい役職として出てきています。


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