主イエス再臨の希望はシンプル

 以下は主の再臨の希望についてのメモです。自分の信仰にとって、教会生活にとって要になっている部分を、手短に書き留めました。

「神は、聖徒たちに対して、どの世代の人々にも、主イエスがその世代に戻って来られるのを期待するのを願っておられる。」

 これは、牧者チャック・スミスが、主の再臨に付いて教える時に、しばしば話していた内容で、他のカルバリーの牧者たちも、同じように話す。聖書を素直に読んで、それが自分に当てはまることを知っていたら、自ずとこのような見方になると思う。

 何百年後に来るかもしれないから、自分の生きている時代とは関係ないないのだとはならないし、逆に、今こそが再臨の前夜であり、だから仕事もやめ、教会もやめ(?)、山にでも上って、再臨を待とう!ともならない。むしろ、キリスト者として第一であるキリストを第一にするという、焦点を合わせる知恵を与える。

1.主は、教会のために戻って来られる

a)忠実さを与える

 主は、いつ戻られるか分からない、今日、戻られても良いように忠実に仕える。主人が帰るのを待つ、人々を養うのを任されたしもべたちの喩えが、それだ。きちんと養っているしもべは、思慮深いしもべとしてほめられ、飲んだくれて、殴ったりしているしもべは、退かれる。だれのためにやっているのではなく、主ご自身にお仕えしているのだということを、主が今にでも来られるという教えを心から受け入れることによって、正される。

 良い行いをしても、この地上では報われない。主にある労苦が無に帰しているのでは?と感じることがある。しかし、主は見ておられる。主が戻って来られる時に、良い忠実なしもべだと賞賛が与えられる。主が、間もなく来られるのだと信じることは、キリスト者の忍耐にとって必須の希望だ。

b)救いの希望

 イエス様を信じて、聖められ、義とみなされた。それでも、自分の肉の問題があり、霊と肉の葛藤を日々、経験する。既に救われたのに、未だ救いの完成が来ていないという緊張の中にいる。これを、ロマ8章では「うめいている」と表現している。主が来られると、ピリピ3章にあるように、栄光の姿に変えられ、今のうめきから解放される。

 ちょうど、競走選手が、目標があることを知っているから今、苦しくても走ることができるように。イエス様が来られて、上に召されることを知っていれば、今の苦しみにも耐える力が与えられる。

c)清め

 1ヨハネには、主が来られる時、主と同じ姿になるので、その現れを待ち望む者は、主が清いように、自分を清めるとある。罪の生活をしている時に、主が来られることは恥ずかしい。今日、主が来られるかもしれないと、いつ来られても良いようにするには、心身を清く保っておくように努める。

2.世の終わりのしるし

 主は、かつてのノアの時代と同じように、ご自身が来られる時に、悪にのみ傾いている世を裁かれる。その終わりに起こる兆しを前もって教えられた。時を知ることを、主は命じられている。

 主が初めに来られた時も、その時のしるしを見分けるように促しておられた。当時の宗教指導者はしなかったので、災い(エルサレム破壊)が襲った。空模様をもて天気予報をするぐらいなのに、どうして時のしるしを見分けられないのか?と言われた。

 そのしるしは、今の時代に、数多く現れている。しかし、それがそのまま、神の定めておられる大患難だということではない。何か大きなことが起こると、今が終わりなのだと煽る動きがあるが、注意しなければならない。預言書や黙示録に書かれてある災いを見たら、今起こっていることは、ほとんど無に等しいほど微小なものだ。

 しかし、それでも、主は注意喚起をされている。大患難に起こることを指し示すような、傾向や徴候は、いろいろなところで見ることができるのだ。

 何か悪いことが起こったら、主が警告されたように、「あなたがたも、悔い改めなければ、同じように滅びるのです。」と言われた。今、世界で起こっていることを他人事のようにみなしているならば、主がせっかく、目を覚ますしるしを与えられているのに、悔い改めて、主に立ち返る機会を逃すことになる。

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