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※訂正あり【沖縄】三線について調べてみました①概要【カルチャー】【note継続28日目】

こんにちは。キヨリンド地域おこし協力隊@辺戸岬観光案内所です。
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さて、本日で30日連続note投稿&三線練習28日目となりました。(詳しくはこちら。)ではでは本日はその「三線」について調べてみたいと思います。


◆三線とは

三線(さんしん)は、弦楽器の一種。日本の沖縄県と鹿児島県の奄美群島で主に用いられる。
沖縄県では一般に「さんしん」「しゃみせん」という。奄美群島においては「三味線」「蛇皮線」「ジャミセン」という。「さんしん」という呼称については、起源である三弦との関係が指摘される。
三線は音を出す胴の部分に蛇皮を張り、胴の尻から棹の先(天部)に向けて3本の弦を張り渡して、弦を弾いて鳴らす。
主に単音でメロディ部分を演奏する。助数詞には「本」「棹/竿(さお)」「挺/丁(ちょう)」等を用いる。
楽譜は「工工四(くんくんしー)」という独特の記譜法を用いる。これは、中国の三弦楽譜「工六四」(くるるんしー、と沖縄で呼ばれる)が原点とみられる。
引用:ウィキペディア「三線」より

弦が3本ある弦楽器、ということですね!(ざっくりすぎではないか)
では、どこからやって来たのでしょうか。琵琶みたいにシルクロードからやってきたのかしら、、、

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◆どのようにして生まれたのか?

三線は元々福岡発祥中国発祥で三線を琉球時代の沖縄に持って行ったところ沖縄の文化になったと言える。
(どういう経緯か全く覚えていませんが、現ウィキ記事には福岡のふの字もありません、、、申し訳ございません号泣。正しくは中国発祥となっております。お詫びして訂正いたします!)
中国大陸の東南部(現在の福建省)の弦楽器「三弦」を直接のルー中国発祥ツとする。琉球王国は統一(1429年)後、中国大陸や東南アジアとの交易により多くの文物を取り入れていた。伝承では久米三十六姓帰化(14世紀末)以前にはすでに琉球に持ち込まれていたという。15世紀後半には尚真王が士族の教養のために三弦を奨励していた。その後、日本でいう永禄年間初頭(1558年または1559年)に泉州(現在の大阪府南部)堺へと伝わり、日本本土の三味線の起源となった。
引用:ウィキペディア「三線」より

福建省由来の福岡県経由か。(自身の入力間違いでここまで勘違いしていたとしたら、注意力無いにもほどがある。でも、ウィキにどうかいてあったか記憶がない、、、ということは私の入力ミスである可能性が限りなく100%に近い、、、すみません、、、こちらに気づいて下さったのはななこさん!
さすが琉球弧民謡研究会の会員さん!ありがとうございました(TT))
琉球王朝時代(1429年~1879年。長い!!!)の琉球は貿易がとても盛んだったそうですからね。
お隣の国のみではなく、木製の船でマレーシアなどの東南アジアまで出向いたというのですから驚きです。

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◆三味線との違いや関係性は?

成立は15世紀から16世紀にかけてとされ、戦国時代に琉球(現在の沖縄県)から伝来したもの。他の多くの和楽器と比べ「新しい楽器」である。
革は一般に琉球三線のニシキヘビの皮と異なり、猫の腹を使用していたが、高価な事と生産量の減少により、現在は稽古用など全体の7割程度が犬の皮を使用している。 また津軽三味線は例外を除き犬革を使用する。
引用:ウィキペディア「三味線」より

南から北へ渡っていったのですね。他にも色々書いてありましたが詳しくはウィキペディア「三味線」をどうぞ笑。
(もしや、、、?と思い三味線ウィキも確認しましたが福岡のふの字もありませんでした、、、本当にすみません。)

◆三線の役目

17世紀初頭には琉球王国が三線主取(サンシンヌシドゥイ)という役職を設けた。琉球王国は、清から訪れる冊封使の接遇のために典礼を定めて盛大な接待式典を挙行していたが、そのための役職である踊奉行の玉城朝薫が1719年、能や歌舞伎など日本の芸能を参考にした組踊を創始し、三線・島太鼓・胡弓といった沖縄音楽・琉球舞踊の発展の礎となった。
(中略)
琉球舞踊同様に三線は男性の楽器とされてきた。その為、調弦は男性用になっている。
(中略)
那覇の辻・仲島などの遊郭では芸妓・遊女が座敷芸として唄三線を身につけた。
引用:ウィキペディア「三線」より

なんと!海外からのVIPを接待するために役職の三線主取踊奉行があったとは!
芸能に重きを置き国交に必要不可欠だと国を挙げて認識されていたなんて、なんて素晴らしい国なんだ!今では芸能は「不要不急」の行いですからね。
こんな重要なポジションで絶対踊りたくないけど笑笑
そして、昔々は三線は男性のが演奏するものだったのですね~。現代で三線に出会えてよかった です笑。
また、「芸妓・遊女が座敷芸として唄三線を身につけた。」というのは三味線に共通するところでもありますね。
現代では御願(うがん、安全祈願など様々な理由により行われる)の際に演奏されたりもしますね。うーん、なんてかっこいいんだ沖縄よ、、、

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◆琉球処分やら戦争やらで被害を受けた三線

19世紀後半、琉球処分を経て日本の施政下に入った明治時代以降には、
様々な流派が王朝時代の楽曲の保存や三線の普及に務めた。
第二次世界大戦末期には沖縄は激しい戦火に見舞われ(沖縄戦)、多くの三線が被害を受けた。製作後250年を経た三線や琉球国王所有の三線の他、「開鐘(ケージョー)」と総称される名器のうち数丁も永遠に失われた。
引用:ウィキペディア「三線」より

ううう、、、涙。一切合財なくなってしまわなくて本当に本当に良かった。
物はいつか形を失いますが、人々の中にあるものはいつまでも失われず語り継がれていくのですね。私もしっかり弾けるようになるまで続けます。

◆まとめ

元々は大陸からやってきた三線でしたが、このように琉球王朝によって独特のものに発展していった三線。私は特に音階に興味があり、インドネシアはバリ島の楽器「ガムラン」と共通する音階だそうです。木の船で東南アジア
を訪れた際にセッションでもしたのかしら、と妄想が膨らみます笑。

ということで次回は「ガムランとの関係」について書きたいと思います(妄想含め笑)

最後までお読みくださりありがとうございました。
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キヨリンドでした。




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