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生きている事の本質

NOTEを始めてみて気が付きました、今まで19話ほど気持ちよく書いてきましたが、懐かしい昔話は、20歳台後半に始まって、まだ8年分しか書いていないのです。このペースで、80歳の現在にまで追いつくには、あと100話以上は書かないといけません。おそらくこれから先は数年ぐらいしか期待できない私には、あまり時間がありません。
そこで、順不同と言いますか、時々は現在および(あまり先がない)未来について、日ごろ考えていることも書きたいと思います。この齢になって思うことなどについて。
まず、残り少ない「生命」と云うものについて考えました。  

客観的に生命の価値は量れない

本来、人間は死ぬことを大変恐れます。「命が惜しきゃ、有金全部出しやがれ!」と云われれば、まぁ普通の人は、財布を渡します。つまり自分の命には、無限大の価値があるわけですが一方、朝のニュースで、アフガニスタンの爆弾テロで120人の人が死亡しましたというニュースを聞いて、泣き崩れる日本人はなかなか居ません。つまり他人事なのです。
これは、命の価値を誰もが納得するものさしで計ることの難しさを示しています。
命の価値は主観的なのです。

命について語るとすれば、ほかに宗教的、精神的、哲学的、オカルト的な側面についても多くの話題はあるのですが、私はこれらの分野で何かを語る素養も知識もないので、極めて独善的な私の死生観を申し述べます。

生命の本質とは、持続的な化学反応のこと

64歳でミネラル水を生産販売する会社を経営することになった私は、ミネラルについて勉強するうちに、生命現象について、いくつかの新しい発見をしました。(つまり知らなかったことを知りました。
この地球上に存在する生命体は、バクテリア、植物、動物(昆虫なども含む)など数百億種類に上りますが、すべて同じ仕組みで命を紡いでいること、そして最先端の科学技術を用いても、同じ仕組みの生命体を育む地球以外の星をいまだに見つけられていないことです。
私達地球上の生命体はこの暗黒の宇宙の中で孤独なのです。
ですから、今のところ、この地球という惑星の上でしか生命については議論できません。

やや乱暴に言えば、この地球という惑星に在る生命体の定義は、

1.取り巻く外界と、膜状のもので仕切られていること
2.ゲノムという設計図を内臓しており正確に次世代へコピーを引き継ぐ事
3.ゲノムの指示に従って、外部から取り入れた基質(原料)に働きかけ生化学的反応で生命維持に必要なエネルギーと物質を合成する。(つまり代謝をする。)

という事になります。
私達人類と植物との共通のご先祖様であるバクテリアの代表として大腸菌を例に挙げますと
彼はたった一つの細胞でそのまま命です。私達人類は、60兆個(一説には40兆個)からなる多細胞生物ですが、ひとつひとつの細胞の中では、大腸菌と同じ仕組みで命をつむいでいます。つまり上記3.の代謝を行っています。大腸菌の細胞の中では、約800種類の化学反応が整然と進行しており、生存に必要な、エネルギーと蛋白質が作られています。

大腸菌の棲む環境を考えてみると、人間の腸の中なので、温度36度C、気圧1気圧になりますが、直径1ミクロン、長さ2~3ミクロンの体内で、800種類の化学反応を整然と起こすためには、極めて優秀な反応触媒の存在がなければ無理と云えます。其の触媒を酵素といい、酵素を活性化させるために、多種類のミネラルが補酵素(補欠分子族)として必要になります。「生きているという事は、各細胞内で、数百種類の化学反応を持続的に維持する」という事とおなじです。

命とは、細胞内の持続的化学反応が続く事であり、それが終わってしまえば、死んだという事になるわけです。従って私は、死ぬという事について、あまり精神的な側面を考えなくなりました。

たとえばお墓なんかどうしますか?

新しくお墓を作るためには、かなり高額の資金を必要とします。日本では、法律で火葬が決められていて、死ねば必ず骨だけにされてしまいます。(日本在住のムスリム教徒のために土葬を認めるお寺がごくまれにあるそうですが、)其の骨も茶碗1杯ぐらいの部分だけ拾って残りは火葬場が廃棄してくれます。(勿論、特大の骨壷に全ての骨を拾い集めて、きれいな錦織の袋に入れて残す地方もあります。)
さて一部分(又は全部)の骨を、お墓に収めて年に一度残された家族・縁者がおまいりに来ますが、その関係者もやがては死に絶えてついに誰も来ない無縁の墓になると、待ってましたと取り壊して次の人に販売します。
「永代供養」といって一度払いの制度もありますが、供養を頼んだ人が来なくなれば、同じことです。やや後ろめたいのか、取り壊す前に「魂を抜く」儀式なんかやっています。
突き詰めて考えていくと、亡くなった人の関係者が生き残っている間だけお墓は機能していることになります。これでだんだんはっきりしてきました。お墓は亡くなった人の為のものではなく、残された縁者のためにあるのです。考えてみればお葬式も、神棚、仏壇も全て残された人たちの満足感や慰めのためにあるのでした。

千の風に乗って

一時流行った歌に、「私は其処に居ないので、お墓の前で泣いても意味ありませんよ」というのがありましたが、「なるほど皆んな考えることは一緒なのだ」と感じました。
私が、火葬に付された時には、体の大部分は、煙となって天に上がり、構成していた元素はばらばらとなって大気圏の中に拡散し、また長い長い還流の中で誰かの体の一構成部分になっているのでしょうか、「千の風に乗って」。


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