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元永定正との出会い

立て続けに展覧会の感想を。


大阪のリヒター展に行く前に、兵庫県立美術館のミニマルアート展に行ったわけだが、そこで思いがけず元永定正の絵を見ることができた。

常設のワンコーナーで、元永定正の初期作品からニューヨークで発表されたと思われる垂らし込み作品、エアブラシによる作品までがまとまって展示されていた。実はあまり作品をよく知らなかったのだが、すべての作品に大変感銘を受けた。
初期作品を見ると、僕の高校時代の美術部の先生の作品を思い出した。ああ、先生はこういうことがしたかったんだなと勝手になんとなく腑に落ちた。元永定正をはじめとする所謂「具体」のセンスというのは色んなところに受け継がれている気がする。垂らし込みによる絵画群もまた、現代の作家たちとの繋がりを強く感じた。僕は作品を見る時、連想ゲームのように色んな作家を繋げて妄想してしまう。何よりエアブラシによる黒い暗黒物質のような作品は、僕の頭の中で稲妻が走るようにいくつかの作品同士を貫いて、素晴らしい啓示を与えてくれた。

元永定正の特に初期作品を見ると、子どもの絵のような印象を受ける。

僕は絵画教室をやってるのだけど、日常的に子どもたちの絵を見て不思議に思うことがあった。
それは空間表現が出来ない、ということ。小学校高学年くらいまでの子どもに言えることなのだけど、ものを描くことが出来ても、その前後の景色を表現することが難しい場合が多いように思う。

例えば鳥が空を飛んでいる絵。鳥は描けるのだが、じゃあ雲を描いてみましょうとなると、鳥のシルエットを避けてぐにゅりと雲が描かれる。さらに言うと、画面のフレームの中に雲はきれいに収まっていて、窮屈そうに外にははみ出さない。モチーフを描くということが、文字通り絵の中にモチーフを「現す」ことと直結しているように思われる。だから、見えない部分だったり、モチーフの裏側を描くことにはそもそも意識がないのだ。

「見立て」という視点がある。

絵がある時、人はよくこんなことを考えたり、画家に聞いたりする。
「これは何ですか?」と。
ある形や色のシルエットを、直接何かに見立てようとする心の動き。
その心理的な働きが、子どもは特に強い気がする。

見上げた空に浮かんだ雲の形、偶然のそのシルエットを見て、「犬に見える」と言ったりする。
もちろん雲は犬ではないし、誰かが犬を表したものでもないが、大人でも確かに犬に見える時はある。そうして犬に見えてきたら、その形に何か心が宿ったような気さえしてくる。ふわふわした毛並みの感触も想起させるかもしれない。子どもだったら一緒に触れ合いたいという気分も湧いてきて、実際に撫でてみようとするかもしれない。しかしそれは偶然の自然が作り出した形に過ぎないのだ。

人は絵を見ると何かに見立て、勝手にあれこれ意味づけをしようとする。

僕は絵は視覚のイリュージョンである以前に、目の前に「現れる」ものだと思っている。他のあらゆるものと同様に。道端の石ころや、流れる雲の形、毎日使うコップや、鞄や服、スマホも。それから人。家族や友達、電車ですれ違う知らない人。実際に出会うことが出来るもので、コミュニケーションを結ぶことができるもの。

丸い形には丸い性格があり、キャラクターがある。
赤い丸と青い丸だったら?大人しいのはどっち?
大きな丸は、重そうに見えるし、小さな丸は、コロコロと転がっていくだろう。

元永定正の絵はまさにそういう感じ。
抽象的な造形で絵本を制作していたという話も納得がいく。

絵の具のたらし込みを使った作品は、その造形自体が内部に宇宙を宿したアメーバのような生命体に見えてくる。この生命には瞳がある。じっとこちらを見ているようだ。この生き物には何語で話しかければいいのか、わからない。

エアブラシを使った黒いモヤのような作品は、虚無を具現化したような禍々しさを感じたけれど、見れば見るほどフラットな色面であり、視線が弾かれる。パーンと張った絵画の肉体が堂々と立っているかのようだ。肉体だから、それはそこにあるだけで何も表す必要が無い、というわけだ。マティスの開いたフランス窓を彷彿とさせる。

素晴らしい作品だ。
そこは僕にとって疑いようが無い事実なのだが、もっと踏み込んだ見方もしてみたい。

元永作品は、造形そのものが心を宿している。
しかし裏を返せば、元永定正の作品は、人に心があると言うことが、前提になっている。
ある造形を見て、人が何かを感じ、様々に感覚を見立てる、そういった心の働き、人間の妄想力が前提になっているのではないか。

例えばAIに元永定正の絵は理解できるのだろうか?

いや、そもそも理解するものでもないだろう。
人間も構成物質が違うだけでAIと同じだという見方もある。
同じだとすれば機能の面では明らかに人は劣っている。
しかし人間の不正確さが、閃きや創造力の源だという話を聞いたことがある。AIはあらゆる可能性を計算できるがゆえに思い込むということが出来ないとか。つまり勘違いによる根拠のない決断が出来ない。なるほど面白い話だと思った。

じゃあこう言うふうに妄想してみよう。
元永作品を見て、AIはあらゆる可能性を考える、あらゆるものに見立てて意味を計算する。何万時間とその計算に費やしているうちに、絵はボロボロに崩れて、人間も滅んでしまうだろう。
さて人間の子供たちはどうだろう。
きっと一瞬のうちに絵に引き寄せられ、言葉のない会話を始めるだろう。

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