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自分で自分の尻を拭うという事

ぼくは、自分で自分の尻が拭える男である。
文字通りの意味で。

インドネシア生活が2年目に突入した春のことだった。
フローレス島という離島の、クリムトゥ山という山で朝日を見ていたら、急に便意を催した。
フローレス島のクリムトゥ山は観光名所ではあるものの、外国人はあまり訪れない。
したがって、トイレにはトイレットペーパーなどというハイカラな物はなく、事後には水と左手でお尻を拭うローカルスタイルを強いられることになる。
ぼくにとってそれは未知の世界で、できるだけそのような事態は避けたかったのだが、もう限界はすぐそこまで迫っていた。
腹を括ってことを済ませたぼくは、意を決して左手でお尻を拭った。
最初の感想はこうだ。


き、気持ちいい……


確かに若干の嫌悪感はあったが、それよりも、ちゃんと洗えているという気持ちよさが勝った。
決して、特殊な性癖を開花させたわけではないと信じている。
トイレットペーパーを使用するよりも、ダイレクトに洗浄が行える「ハンドウォシュレット(以下、HW)」はむしろ清潔であるという説もあるし、常夏のインドネシアでは濡れた下着もすぐに乾くため、不快感もそこまでない。
日本人にとっては受け入れがたいスタイルだが、意外と悪いものではないのだ。

「気持ちいい」という感情の背景には、「ちゃんと洗えている」以外の理由もある。
それは、「自由になれた」という感覚だ。

「自由」というのは、「束縛から解放された」状態である。
「バリアフリー」とは「バリア(障壁)から解放された」状態で、「デューティーフリー」とは「デューティー(関税)から解放された」状態を意味する。
HWを実践したぼくは、「💩をした後はトイレットペーパーを使用する」という固定概念から解放された。
一つ、自由を勝ち得た気がした。

何事も最初の一歩が重要だが、今ではHWに対して心理的な抵抗は一切ない。

HW方式が採用されている国はインドネシアに限らないが、海外生活が長い人でも、このスタイルを実践したことがある日本人は少ないようだ。
つまり、HWを自由自在に使いこなせるぼくは、他の日本人よりもトイレの選択肢が多いわけで、その点では圧倒的に有利なのである。
もし、オイルショックやコロナショックが再来して、店頭からトイレットペーパーが消えるなんて事態に陥っても、無傷で乗り越えることができる。
トイレットペーパーを使わないということは、環境保護活動に携わっているということでもあり、口先だけでSDGsを語る連中よりもはるかに崇高な人間なのである。

筋トレをしていると、他人から理不尽なことを言われても、「最悪、この人を殴り○すことができる」と思ってメンタルが強くなる、という物騒な話があるが、HWでも同じことが言える。

「いろいろ言っているけれど、所詮、この人は自分で自分の尻が拭えない人間(文字通り)だもんな」と思えば、相手が尻の穴の小さい人間に思えてくるのだ。
もし相手が「自分で自分の尻が拭える人間」だとしたら、気の合う友達になれると思うが、会話の途中で唐突に「左手と水だけで事後処理をしたことはありますか?」と聞くことはないと思うので、相手が「自分で自分の尻を拭える人間」かどうか知る由はない。
なお、HWを実践したからといって、物理的に尻の穴が大きくなるわけではないので、その点は安心して欲しい。気持ちの問題だ。

このように、HWは事後処理方法の1つであるだけでなく、心の拠り所にもなりうるものなのだ。
もはや宗教だと言ってもいい。
HW教。教祖はぼくだ。
HW学園を作って、甲子園の常連校にするのが夢である。
ちなみにピッチャーにサウスポーはいない。
HW教において、左手は不浄の手だからだ。
逆に、「ウンが付いた幸運な手」という解釈もできるが、一応他校への配慮もある。


人生に行き詰まった人は、HWを試してみて欲しい。
ちょっとだけ優越感を抱くことができるし、他の人間が大したことないような気がしてくる。
「自分は自分で自分の尻を拭える人間だ」という自信があれば、大抵のことは水に流すことができるようになる。

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