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【坂本龍馬】坂本龍馬と土佐勤王党

江戸への剣術修行を終え土佐藩に戻った坂本龍馬は、盟友武市半平太の作った土佐勤王党に参加しました。

土佐勤王党とは?

江戸へ剣術修行に出た武市半平太は長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作などの尊王攘夷派と盛んに交流を持ちました。
特に久坂玄瑞から師匠である吉田松陰の「草莽崛起」の思想に影響を受け、江戸で数人の同志と土佐勤王党を結成します。

尊王攘夷とは?

天皇を尊び外国人を打ち払うという思想のこと。
「王を尊び、夷を攘う(はらう)」の意味。
もともとは別の考え方だが倒幕派のスローガンとなった。
勤王と尊王はほぼ同じ意味です。

草莽崛起とは?

「そうもうくっき」と読みます。
志のある民衆が立ち上がるべきだという、吉田松陰が提唱した思想。
長州藩士はこの思想の元活動していた。

土佐に帰った武市は勤王党の活動を始めます。
党員は200名ほど。
環境や考え方が違う人々をまとめる武市には苦難が待っています。

龍馬、脱藩

藩によって政治方針は変わります。
江戸時代260年で幕府からどのような扱いを受けてきたかです。
倒幕の中心的な存在となった薩摩藩や長州藩は幕府憎しの想いを持っていました。
土佐は初代藩主の山内一豊が徳川家康に引き立てられたこともあり佐幕派でした。
武市半平太は土佐藩の体制を尊王攘夷に持っていくために土佐勤王党を作りました。
党員のほとんどは郷士でした。数少ない上士の参加者である乾退助を通じて藩上層部にかけ合いますが、参政吉田東洋が立ちはだかりなかなか上手くいきません。

同時に武市は他藩の動向にも目を光らせていました。
龍馬にも他藩の調査の任務が課せられます。
剣術修行の名目で丸亀藩、長州藩、宇和島藩に向かいました。
長州藩で久坂玄瑞から「草莽崛起、糾合義挙」を促す書状を預かり土佐に帰ります。
(人々よ、立ち上がれ!というような意味です)

にわかに尊王攘夷の動きが活発になってくるなか、武市による土佐藩の改革は遅々として進みません。
それを武市が二の足を踏んでいると感じる者も出始めます。
彼らは脱藩して尊王攘夷を成そうとします。
龍馬は誘いを受け脱藩の決意をしました。
当時の脱藩は重罪でしたが、それでも今を変えたい想いが強かったのでしょう。
この時龍馬は26歳。
この脱藩により日本は変わっていくことになります。

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