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キウイ

最近はキウイをよく食べている。キャラクターのCMが可愛いゼスプリのキウイだ。家でキウイを食べるのは本当に久しぶりで、最後に食べたのがいつだったかまったく思い出せない。

みんなキウイはどうやって食べているのだろうか。自分はシンプルに半分に切ってスプーンですくって食べている。単純に皮を剥くのがだるいというのがある。しかし実家にいた頃、親や自分のキウイの食べ方は皮を剥いて輪切りだった。グレープフルーツみたいにスプーンですくって食べるという発想が、キウイに対して当時の実家はなかった。

実家にはキウイの木があった。キウイってブドウみたいに実がなるんですよ。棚を作って、そこにキウイの木を這わせて、時期になるとキウイがたくさんぶら下がるようにできるという感じ。季節になると毎日食べていた。実家にいた頃はキウイをお店で買ったことはなかった。祖父が育てていて、家の前の畑で作る大根とかキュウリとかトウモロコシに混じって、キウイだけなんだか洒落た雰囲気があって、どうしてこれを育てようと思ったのか不思議だった。

そのキウイもいつしか作られなくなった。単に実がならなくなったのか、それとも何か理由があって育てるのをやめたのか、今もってわからない。代わりに、木は植えていたけど数年間全然実がならなかったミカンが、何故か急に大豊作となり、今では近所に配っても余るぐらいに大成長した(たった1本の木からダンボール数箱分のミカンができることが本当にすごい)。

実家を離れた今は、定期的に母から電話がくる。こちらの調子はどうだとか聞いて、ちょっと前だったらどこそこに旅行してきたとか話してくれたりした。浅草や上野に遊びに行ったと言い、連絡くれれば会いに行ったのにと私も言うが、母はいつも事後報告だ。その辺り、過度に干渉しないところは親も気を遣ってのことだろうし、これがうまく家族をやっていけるこつなのかもしれない。

春から夏にかけての母からの電話は、主に父の畑仕事の進捗報告になっている。キウイはなくなったが、それでもたくさんの野菜を今も作っている。今日はスイカの苗を植えたとか、ブルーベリーが収穫まであと少しとか、電話の向こうから父の畑の空気が伝わってくる。たまに帰省すると、食卓に並ぶ野菜はどれも実家の畑で採れた野菜だ。美味しい。東京に戻ってもその野菜が食べられたらいいなと思うが、親に野菜を送ってよとは言い出せない。何故なら一人暮らしの私は自炊しないというキャラクターが親の中に出来上がってしまっていて、それをわざわざ変えようとするのが面倒だからだ。完全に自炊生活とは言えないけれど、昔よりは料理するようになった。だけど親にご飯は外食ばかりなのかと聞かれて、自分で作ったりもすると答えたら、いろいろ根掘り葉掘り聞かれそうで面倒という気持ちが先立ってしまい、結局当たり障りのない言葉で濁してしまう。なので親の作った野菜は帰省しないと食べられない。

自分も親も遠慮していることは双方とも実感しているはずだ。傷つかない距離感で生きている。みんな歳をとってきて、この脆い関係がいつ壊れるのか不安でもあるが、だからといって一歩踏み込む勇気もない。キウイは美味しいのに、食べると実家の記憶や離れた家族のことを考えてしまい、なんだか切なくなる。

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