黄金の60年世界

(1960年)1月6日

 35年度の初仕事、島田の退職で歯のぬけたようなかんじがしたが、どうにもならん。森田・親方とも競輪勝ち、銭神のおっさんだけが敗け、しょんぼり。

「吹き下ろし、金なき我が身にしみとおり」

 日記帳20円、残金40円

「初雪に顔でわらって心でないて」

  1月8日 金曜日 晴

 一昨日、銭神のおっさんからもらっていた山陽電車の家族パースの表紙を失っておっさんに話す。

 平山が山田貞夫と再会し、ある女学生にもててもててこまる由、松倉と俺も再会山陽電車西舞子駅で彼からオースと言われ初めて会話、彼の話によると、俺は言葉づかいが荒き由。

  1月9日 土曜日 晴

 山陽電車須磨駅から江頭と宗和と。

 俺と江頭はかわぐつ、宗和はスポンジのクツ。

 江頭は「白かわグツの音は感動がある、だが君のクツはスポー、スポーとたよりない」

 宗和は言う。「学生はかわぐつをはくものではない。学生らしく」

 江頭は宗和のマフラーを指し、「これは、君らのするものでない」

 宗和、「これはアクサーサリ」という。

 江頭、ボタンを指し、「ボタンをせんか」と言い、俺に同調を求む。

 俺は、微笑のみ、この会話、親しき友のみか。

 あるいはじょう談か。だがてき視ある。

 親しき友として、藤原紘一は我らに心なし

 なぜ彼は俺らにこのような態度をとるのか。彼の心をわからぬもないが、俺と魚住の本能のままの姿、彼の狭き大学の門による圧ぱく、我らにひがみなのか。

 だが、俺は思う。俺と紘一と魚住の友の集会、だが、これも紘一の大学入試が実現してからの夢か、だが夢でない。

 俺は仕事の間に考えた。赤きオーバの女性に手紙書きたい。だが、四国の島田にも手紙を書かなければならない。友、我も彼も友として。

 だが、俺の友情としての考え方も考えねばならぬ。

 紘一にしかり、島田にしかり、俺は便りをかこうと思いまた書いているが、彼らも俺のような気持ちでいるのであろうか。

 俺の友に対する心は、つまり、相手は俺の女性と同様である。

 女性に対する片思い、男の友に対しても同様なのだ。

「片瀬船 かなわぬ恋を 乗せながら」

 富士夫より 二百円借入

  1月10日 日曜日

 昨日就眠したのが、10日の午前二時半前後と思う。

 目が覚めたのが7時半。11時前後まで床におり、それより起きたものの退屈。

「初エビス」というのに、午後よりしとしと雨模様のためテレビで6時15分まで待つ。

時間有り、たのみの金は俺になし」

  1月11日 月曜日

 宗製作所、俺は見切りをつけようと決心した。

 その理由としてあまりにも工場に笑いというものがない。

 職人、親方には大人としての笑いが有るが、俺達といっても楽しみがない。

 藤崎とも満足の仲ではない。

 又島田の退職と同様俺も彼の様なやめかたはしたくない。

 自衛隊、俺にとってのあこがれであり、また楽しみである。

 朝の6時から晩の2時まえ俺の好きなようにあばれまわる事が出来、また俺と島田との義理も立とう。

 俺には俺なりの夢もあり、希望である。

 夜、富士夫に明日、志願書をもらってくるようたのむ。

「うぐいすも 梅花なき我身に 美声なし」

  1月12日 火曜日

 宗和が今日は電車に乗らずものさびしく長田につく。

 自衛隊か鉄工所か今日一日まよい通し残念。

 自動車運転手もよいが、過去3年間という時間を無駄なものにもしたくはないが、今の生活にも考えもの、今日も親方が仕事終わってから言った。「岡本はまだ運転手をしているのか」

 俺の見る所を見かねて話しかけてきたのではないのかと。

 我らに良心ある態度であってほしいものである。

 俺もわがままであるところは認めるが、今日この頃、藤崎と俺の仕事の差も多分出て来た。

 さびしい思いを慰めるかのように俺は歌よう曲、それも古いなつかしい歌を仕事中くちづさんでいた。

  1月13日 水曜日

 宗和、駅に来るなり江頭の恋しき女性が19分の電車に乗り、江頭と俺の写真をほしいと言って居るといって江頭を喜ばせていた。

 真実はどうかわからないが、俺の恋しき女性も今日大蔵谷至41分の電車に乗っていた。垂水駅でフト、ドアーの付近を見ると、赤いオーバが見えた。だが、彼女であるとは思いもしなかった。近日、赤い服またはオーバーはよく見かけるためか、普通電車に乗り換えて、新聞をみるのはよいが、なにせ近日あまりあったことがないためか、新聞などはみては考えないありさま。

 チラリチラリと彼女を見ることしかりだが、大蔵だに近くになると彼女、機関誌かパンフレットかを起き、俺が彼女を見ているのを気づいたのか、南側をじっと見つめ、手袋をもじもじにぎりしめることしきり。

 朝電車中、中村の兄貴、親父の事を俺に言う。

「めがねかけた人、お前のお父さんちがうんか。」「川崎におったやないか。」「家に帰らないのか。」「どこに居るのか。」

 などと言い、ヤクザの出入り前のような事をいいやがる。馬鹿野郎。

「風のようにフラリフラリと俺の意志」

           我が意志に

「アシの湖に写りし富士を我がものに」

  1月14日 木曜日

 昨日永富のおじさんと会い、その人は言った、

「岡本の宅ちゃんは可愛想な事をするの、わしは市役所で調べてきたのやけどな。」

 美音子の死の件、俺も岡本の兄貴がその様な人間であることには知らぬ事もないが、他の人から言われると腹を立てるのもあたりまえである。俺の時計、美音子、そして家のこと、そのような事をされても文句もいえぬ我が身を悲しむこともある。一週間か二週間前かわすれたが、俺が富士夫の就職試験のことで、「家庭の事情が悪い。これは母親が悪いのだ」と二、三度言ったことがあった。だが、これは今さらこの様なことを言っても始まらないのだ。母親をうらみ、父親をにくんでいたところで元にはもどらない。小学校を出てすぐパンやに働きに出た妙子、また中学校を二年で退学して働きに出た美音子。なのにたのしみもなく今の世をさった美音子にせめて世間なみな事をしてやりたかったがこのような後味の悪いことになろうとは思いもしなかった。

 たえ子、俺と、富士夫、5人の兄弟が20年もしないうちに3人になるとは兄弟は運が悪いと言えばそれまでだ。富士夫と俺のみ、父親にしろ、いくら何でも働く事ができなくられば世帯の内にいれなければ可愛想であろう。だが、黄金の60年世界または日本も言うが様、我家にも黄金の60年である事には相違ない。

「針のように細く冷たい今の世かな」

   時世かな

  1月15日 金曜日 

 今日は成人の日、満20才の青年の待望の1日であろう。20才に成り、タバコを喫い酒を大人同様にふる舞うことが出来る。俺には後2年後の今日である。四国の島田も今日は又、楽しく、酒をぶら下げ、彼の言う松原で一パイやっている事だろう。手紙を書いてやりたいが、時間のないのにこまる。彼からも来ぬ。彼は手紙を書くのが好きでないのだろう。

 今日、岡本の兄貴が、家の水事場を拡てくれていた。金を出さずにしてやろうと言う事にはしてもらうことにしてあるが、恩、義理などと後で言われたくもない。だが、作ってやると言う物をいらぬと言って見た所、得にならぬ。

 今月あと13日有るが俺の金は50~60円位しかない。まあ、次の日曜も仕事に出る事だろうが、さびしい。金の無いのも今に始まった事ではないが、人の好い様な、ケチの様な性格、他人の前では人の好い、だが、その腹の底では金の勘定をしている様な情態。と言うのも、金はほしいが他の人間の金の出し方のおそい時など、俺の性格はすぐに金に手をふれる。貯金などと言うと、百円千円と言う額は馬珂らしい。一年間始末して月千円ずつ貯めても1万2千円というと、10年でも12万円、それ位の金ならば月に千円でも多分にあそぶなり、タバコ「光」1日1個で30円、月になおせば900円一年になれば1万8千円になると言って、月にたばこを喫わないと言って、十年で十万八千円残すかと言えばそうでない。我らにしても、目に観え無い金が月の内、1000~1500円位は消えてしまうであろう。金は貯めたし遊びたし。

  1月16日 土曜日

 朝からどんよりとくもり空、俺の心も又クモリ。

 真ちゅうの丸頭のビスが数を40余り多くしている時に又、「6mの角」が来た。腹の立つことこの上なし。

 近日気にもしていなかった自衛隊行きを空想して又、ニヤニヤしている。親方に俺のやめるときにどの様な事をしゃべってやろうかと考えた。俺のか想対談。

俺 「今日は親方おってですか」

  「親方さん単刀直入ですけど、自分は工場をやめさせてもらいたい」

親方「なぜやめるのや」

俺 「なぜと言っても理由は沢山あるけどな、まあ、その内の第一は工場に面白みがない。職人や親方も入れて大人達じゃ競輪の話なりで大人の話同士で面白いであろうが、俺達はそれがない。あまり工場が陰気すぎる。

   第二として、斉藤や島田、又、東田、これら今日まで工場をやめた人間は、性格として考えてみると、斉藤は外交性のある人間である。島田も外交性のあり、共調性もある又、東田は外交性共調性は少ないが、派手好みである。共通しているのが共にほがらかな人間であろう。又、俺も陰気な性格ではない。又、俺は斉藤や島田のようなやめ方はしたくない。男としてやはりおしまれやめたい。斉藤、島田がやめたから、俺もおなじ性格だからやめなければならないと言うのではない。」

  1月17日 日曜日

 今日は用定通り出勤と言う事になり残念とは言えぬが休みたい。

 何も考える事がないためか、彼女にラブレターの事を考えてみた。次の通り『愛の手紙の書き方』より。

「突然このようなお手紙をお許しください。僕は山陽電車を利用し、神戸の長田にある鉄工所に勤めております。月1、2度あなたと同じ時間の電車に乗ります度に、あなたの気高きおすがたに心秘かにおしたいしておりました。あなたとぜひとも御交際したいと思っておりますがいかがでしょうか。時事、スポーツ等、あなたとお話し出来たらと毎日思っております。」

「意志よはき小さき心は恋由えに」

  1月18日 月曜日

 12時35分(午後)

 書くことなし。残念無念。

  1月19日 火曜日

  親

 親と言う人間は、面白いものなのだ。

「親にかんしゃしております」と言う言葉はよく耳にする。

 誠によい事だと思う。終始子供の事を思い、心配している親を見ると、目頭が温かくなる。だが、俺はこの事を言葉に出せないのだ。「なぜだ」

 過去、十八年間、俺達兄弟のためにと言え、これは自分の子供として育事は当然なのかも知れない。又当然であろう。

 雨の日も風の日も食うために働いた母、その母に対して、俺は*しめと、冷たんな態度で母を見る。

 俺は、自分達の快楽にふけった副産物として我らが出来たのだろう。両親が我々兄弟つまり自分の子供を欲しいと思って我らがこの世に出て来たのではないだろう。それがため、我々の面当を見るのも当然であろう。その当然の事をしてもらって喜ぶ物はよい。我々兄弟はどうか。幼年期のことは知ることもないが、幼ち園に俺が通う様になってからの我家の状態、まったく情けない。親父は親父、母親は母親で、自分の好き勝手な態度、それが今も遠々とつづいている。親父は親父で言分はあろう。又、俺のきおくにある事だけでも、親父の古いオーバを土産に持って行き、俺のオーバを造ってもらった事を覚えている。又、公園の巨人軍の練習であろうか、親父に連れられて、見に来た事もあった。これも俺の幼児のころの事である。それからは、母親の情で我々は大きく成長してきたのであろう。

 だが、小学校五年生ごろの貧乏生活では、俺も学校に行くのが苦るしくてたまらなかった。母親に泣かれてこまった。「輝雄、お前がそんな事でお母ちゃんは誰れをたよって生きてよいのや」と、とうとう泣き落とされた。「父の情けは山のよに、母の情けは海より深き。」 まったく、俺の父母のようだ。だが、父母が健在でありながら、幸福な家庭生活が出来ないのが残念である。

 俺は今現在、母親に対して冷淡である。だが、この冷淡なのも時間の問題であろう。俺も母又父と友達のような間柄でありたい。親対子供では味けがない。ただ、母親に今現在のぞんでいる事が、俺の誤りでない事を格認している。一日も速く、手を切るなり出入りを減らすなり、と言え、過去矢島のおっさんに世話になっている事は見とめるが、母親が対おっさんにしてきた事を考え合わせると、甲、乙をつけられるものではない。

 又、親父に望む事として、現在通り、健在でいる事だけである。

 後十年、俺が世帯を持ち、又富士夫が世帯を持つ様になれば、楽しい生活が出来るであろう。

「十九日現在で金一円のみ」

 残念、無念。

(山本輝雄日記より)

 

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