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僕のじいちゃんを自慢したい

#20210112 Facebook より

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僕は生まれた時からじいちゃんと一緒でした。
父・母・弟・妹と僕。
そして、じいちゃんとばあちゃんを含めた7人生活。
そんな家族の中でも、僕は特にじいちゃんのことが大好きで、毎日毎日じいちゃんがCDで流す北島三郎を2人で熱唱して育ちました。


じいちゃんにべったりだった僕は、いつしか幼稚園の卒園アルバムの将来の夢の欄に、ぐちゃぐちゃのひらがなで「きたじまさぶろう」と書く、ド渋い幼稚園児に仕上がっていました。笑


小学生になってからも、毎日じいちゃんとばあちゃんの間で3人で川の字になって寝て、色々な話をしたし、聞かせてもらいました。
じいちゃんの職歴は、陸上選手・新聞記者・技師装具師・県庁職員など、色々と語っていて、未だにどれが本当でどれが嘘なのか分かりません。笑

とにかく。

僕が見ていたじいちゃんは街の人気者で、町内会長。
いろんな人が入れ替わり立ち替わり家にやって来ていました。

その度に、僕には絶対に触らせてくれない、じいちゃんの部屋の棚の奥にあるウィスキーを大事そうに取り出して、相手のグラスに多めに注いでいて、
僕は「なんで他所の人にそんな大事なものをあげちゃうんだよ」と思っていたのを覚えています。

1度じいちゃんにその話をしたときには「その方がよかと(その方がいいんだよ)」と笑って言っていて、当時は本当に意味が分からなかったですが、大人になった今なら少し分かる気がします。

じいちゃんが通っていた囲碁クラブの裏の池に行って、二人で外来種のブルーギルを釣りまくったり、当時まだダイエーだったホークスを応援して大盛り上がりをしたり、とにかく一緒に時間を過ごしました。

小学6年生の時。
夢中でやっていたサッカーで、僕が腕を骨折して手術したときには、2日に一回、車で病院に連れて行ってくれて、担当のお医者さんに毎回「よろしくお願いします」と深々と頭を下げるじいちゃんを見て、深い深い愛情を感じていました。

底抜けにお人好しで、いつも相手が一番。
大人なのに、何にでも本気で取り組んで、誰よりも楽しむじいちゃんと一緒に過ごす時間が大好きでした。

それから僕が中学生になって、精神的に少しキツくなって学校に行けなくなった時。
じいちゃんは、ただ側にいてくれました。
「学校に行きなさい」なんて1度も言わずに。
「ご飯は食べたとね?」とか「風呂湧いたぞー」とか
普通に接してくれて、一緒にゆっくりと時間を過ごしてくれました。
そんなじいちゃんの存在は本当にありがたくて、じいちゃんにだけは何が辛いのか、本当の心の中を話す事ができました。

折れかかっていた僕の心の支えでした。

高校に上がると同時にニュージーランドへの留学が決まった僕に、じいちゃんはすごく寂しそうな顔で目にいっぱい涙を溜めて「さらば」と。笑
外国に行ってしまったら、一生佐賀には帰ってこないと思ってたんでしょうか。笑
それから毎年ニュージーランドの高校の夏休み期間(日本の11月-1月)に帰国する度に、それはそれは嬉しそうに迎えてくれて、
またニュージーランドに帰る際には、目に涙を溜めて「さらば」と。笑
僕は毎回、そんなじいちゃんをからかいながらも、実はちょっと寂しくなって、本当は涙を堪えるのに必死でした。

東京の専門学校に行くようになってからは、高校の頃のように長期休みも無く、じいちゃんと会える機会は減りましたが、
行き始めたデイケアでは、来ている皆さんを集めて囲碁の講師をしたり、勝手に自分の演歌コンサートを開いたり、相変わらずの調子で楽しんでいる様子は聞いていました。

心のどこかで、まだじいちゃんとの時間を過ごしたいと思っていた僕は、一昨年の7月から期間限定で佐賀に帰るという選択をしました。

佐賀にいる間は、暇を見つけてはじいちゃんの元に通って、色々な話をしました。
今思い返せば、東京のキャリアを中断して一時的にでも佐賀に帰るというのは僕にとっては、すごく大きな決断で、大変なことも沢山ありましたが、かけがえの無い素敵な時間を過ごせたなと思います。


去年の8月に東京での生活を再開させて、熱中して取り組める仕事に巡り合い、がむしゃらに働いていたときに、じいちゃんが入院したという連絡を受けました。
時々できた電話では僕に、「体に気をつけて」「仕事は大変じゃないか」など僕を気遣う言葉ばかりで、ろくに心配もさせてくれませんでした。

そして今日。
じいちゃんは沢山の人に惜しまれながら、安らかに87年の人生を終えました。

じいちゃんは最後まで、同室の患者さんの手を取って北島三郎を歌って元気づけたり(自分が歌いたかっただけかもしれません。笑)
自分が歩くのもままならないのに、ナースコールを押せなくて困っている人のベッドまで行ってボタンを押してあげたり。
看護師の皆さんや、お医者さんに僕がテレビや雑誌に出させていただいた写真や動画などを誇らしげに見せていたそうです。

じいちゃんから学んだことは数え切れないほどあって、間違いなく僕のルーツです。

困っている人には、ただ寄り添うこと。
夢中でその場を楽しむこと。
貰うより与えること。
人と比べないこと。
無償の愛情。

でも、僕にはまだまだ上手くいかなくて、
どうやったらじいちゃんみたいな人になれるのか、教えて欲しいことが山ほどあります。

正直、帰ってきて欲しいです。

コロナで最後に会いに行けなかった事がめちゃくちゃ悔しいです。

でも、じいちゃんは僕に明確な目標をくれました。

じいちゃんみたいに人生を終えることです。

明確なゴールです。

愛とパワー溢れる人間になれるように。
じいちゃんの誇りになれるように頑張ります。

コロナでお葬式に行けないもどかしさと、普段しない晩酌の勢いに任せて、長文・駄文失礼しました。
ありがとうございました。
じいちゃん最高だったぞー!!!
ありがとうー!!!


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2021.01.23 追記

昨年。

90歳を迎えた祖母が祖父に宛てた手紙が出てきたとのこと。

良き祖父というだけでなく、いい旦那だったんだなぁと。

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